幼少期、父親からボコボコに殴られていた。
 物心ついた頃から私の記憶は暴力に染まっていた。父親の大きな手のひらは私の頭を撫でるためではなく、打つためについていた。長い足は私と遊ぶためではなく、蹴り飛ばすためについていた。

両親の喧嘩と暴力 過呼吸を起こし、私は涙も笑顔も失くした

 殴られてた理由ははっきりと覚えていない。ただ、水をこぼしただとか、箸が上手に持てないだとか、口答えしただとかそんな理由だったと思う。幼い子供が過呼吸を起こすまで殴ることを父は「しつけ」だと言った。母親はじっとこちらを見ることしかしていなかった。
 泣くとまた殴られるから、私はいつしか泣くことをやめた。泣くことをやめると、笑うこともなくなった。「可愛くない子供」だと親戚一同に言われた。
 家は貧乏で、家族四人で家賃3万4千円ほどのアパートに住んでいた。狭い家では、どこに隠れようとも父と母が大喧嘩する声が聞こえた。喧嘩が始まると私より小さな妹を抱きかかえながら押入れに隠れた。妹の涙で私の服はいつもビショビショに濡れていた。私は泣かずに、ただジッと、押入れの隙間から殴られる母親を見ていた。
 静かになった頃に押入れの外へでると、倒れたテーブルの周りに食器の破片や食べ物が床に散らばっていて、その中心に母が泣きながらうずくまっていた。父の姿はない。
 母の背中をさすりながら、お腹が空いたと言う妹のために何か食べられるものがないかと探す。
 そんな生活が、中学に上がるまで続いた。

お金の余裕ができると、両親は私を「まるで愛しているかのように」撫でた

 中学に上がると、父親が始めた事業が上手くいって、家は一気に裕福になった。暴力を振るわれることもなくなり、「普通の家庭」になった。
 お金の余裕は心の余裕と直結するのか、両親は勉強ができる私を褒めるようになった。まるで愛しているかのように大きな手で頭を撫でるようになった。
 気味が悪かった。今まで散々暴力を振るってきたくせに、「娘を愛している」と本気で言える父親が。外面だけはとてもいいから、「いいお父さんだね」と言われる父親が。
 中学生の頃、私は父親を人間だと思っていなかった。人の皮を被った悪魔だと思っていた。幸せな家庭になればなるほど、幸せの反動が怖かった。もう暴力は振るわれないのに、いつも暴力に怯えていた。

父の謝罪を聞いてしまった。同じ位置にある火傷の跡はまるで呪いのようだ

 高校生になってしばらく経った頃、父親と二人で食事に行った時、父親が自分の同じように虐待を受けていたことを知った。車に括り付けられて引きずられたり、アイロンを押し付けられたりしていたらしい。父親の右腕には、ケロイド状の火傷が広範囲に広がっている。
 私は震える声で、「自分がそんな扱いばかりされてたから、私のことも殴ったの?」と聞いた。

 その時に父親に初めて謝られた。今まですまなかった、これからは暴力は振るわない。箸を持つ父の手は震えていた。心からの謝罪をしていると分かった。私は何も言えなかった。

 高校を卒業した後、私は家を出て、一人暮らしをしている。
 私は父が25歳の頃の生まれた。私はもうすぐ父が親になった年齢になる。
 父が私や母に暴力を振るっていたのは、自分が子供の頃に暴力を振るわれていたから、それでしか自分の気持ちを表現できなかったからなのだろうか。
 きっと父は、私に暴力を振るいたくて振るっていたわけではないのだろう。ただ、自分が父親から暴力を振るわれていたから。暴力で育ったから暴力でしか人とコミュニケーションが取れない人だったから。私が父親から虐待されていた理由なんてそんなものだ。見ようによっては、父だって可哀想な人なのだ。

 私は父を、許さねばならないのだろうか。自分より凄惨な虐待を受けていたから、父も被害者なのだと。謝られたのだから、いまは仲がいいのだから、しょうがないと。許すことで、この胸に残ったタールのようなどす黒く重い何かは消えるのだろうか。
 父と同じ位置にある火傷の跡を見て、呪いのようだと思った。一生ついて回る、父を許さなければいけない呪い、連鎖する呪い。お前も自分の子供に暴力を振るうぞ、と火傷の跡が言っているようだ。

 お父さん、ごめんね。許すのにはまだ、時間がかかりそうだよ。