それはとてもとても暑い茹だるような夏の日のことでした。
 せっかくの夏休みなのに受験生だからと狭い教室に同級生たちと詰められて、これじゃあいつもと何も変わらないじゃないかと不満に思いながら、夏期講習を受けさせられていたわたしが帰宅したとき、母の知り合いの息子さんだという貴方と出会いました。

優しい笑顔を困らせたくなって、悩んでいた数学の宿題を突き出した

 その時のわたしはまだ14歳の中学3年生で、目下の悩みといえば志望校が未だに決まらないことと、高校受験という圧力をかけられた中での勉強が苦痛なことでした。
 そんなやる気のないわたしの机の上に放置されていた夏休みの宿題や、今し方学校から持って帰ってきた課題を見て、貴方は「懐かしいね」と目を細めて優しく笑いました。そのあと母に貴方のことを紹介されました。
 とある有名国立大学の経済学部を出たあと大学院進学までし、銀行マンになり3年勤めましたが、医者になりたいと幼いころから思っていたそうで、お金もあるし今しかないと勉強し直し、現在はまた別の有名国立大学の医学部生であること。すごく努力家で真面目で一生懸命な人であること。貴方はわたしの母から語られるその話にとても謙遜していて、「いえいえそんなそんな」と柔らかく微笑み、首と手を左右に振っていましたね。

 その優しい笑顔を困らせてみたくなったわたしは、「ねぇそんなに頭がいいならこれ教えてよ」と当時悩んでいた数学の宿題を突き出しました。そんな唐突なわたしのお願いに、その優しい笑みを崩すことなく貴方はノートを見てくれました。
 それは忘れもしない、解の公式の暗記でした。理由もわからず、受験に絶対に出るから公式を暗記しろと教師から言われたそれは、なんでそうなるかがわからないから納得することができず、かといって暗号のように器用に暗記することもできなくて、頭の硬いわたしの悩みの種でした。そのことを話すと、「じゃあ順序立てて一個一個崩しながら考えてみようよ」と丁寧になぜそうなるのか証明してくれました。

以前より少しだけ勉強が好きになって、思いの外良い高校へ

 貴方のおかげで解の公式は得意になりました。他にもわからないところはないの?とそのまま宿題を見てくれました。
 苦手だったはずの理系科目がほんの少しだけ好きになれるくらい寄り添って説明してくれて、内心医者より教師のが向いているんじゃないの?と思うくらい一つ一つ誠実に、頭の悪いわたしの勉強を見てくれました。わかりやすかったからまた勉強見にきてよという生意気なわたしに、貴方は笑って、またいつでも聞いてねと連絡先を教えてくれました。

 しかし、その日を最後に貴方とは会いませんでした。連絡もなんだか気後れしてできませんでした。
 わたしは中学を卒業し、以前より少しだけ勉強が好きになったことで、思いの外良い高校に進学ができ、そこで好きなことを見つけ、それが学べる大学へと進学をしました。高校、大学と勉強、部活動、委員会、アルバイト、友人関係、恋人関係など目の前のことでいっぱいいっぱいで薄情なわたしは、正直だんだんと貴方の存在すら忘れていました。

 そんなわたしが未来へと、夢へと向かって歩いて行こうとしていた時でした。貴方の訃報が舞い込んできたのは。

貴方のおかげで夢が見つかって、その夢がようやく叶いそうです

 自殺だったそうです。
 夢を叶えたはずの貴方が見た世界は、一体どんなものであったのでしょうか。貴方がこの世界を捨てた理由と、貴方が最後に見たはずの世界を知りたくて。わたしは失礼だとは思いながらも、貴方のお母様を訪ねました。
 突然訪ねたわたしを貴方のお母様は温かく迎え入れてくれて、貴方のことを、貴方がわたしに解の公式を教えてくれた時とそっくりな笑顔で優しく教えてくれました。
 無事に貴方は夢を叶えていました。しかし夢を叶えた貴方を待っていたのは想像とはあまりに違う現実であり、優しい貴方はその割れ目にのまれ少しずつ少しずつ疲弊してしまい、そして自死という選択をしてしまったそうです。

 わたしはわたしの知ってる貴方を貴方のお母様にお伝えしました。
 お母様はそう……と言って泣かれました。それから貴方のことをたくさん話してくれました。
 実は勉強が嫌いだったこと、血が苦手なこと、少年漫画が好きでヒーローに憧れていたこと、人を助ける仕事がしたいと強く願っていたこと。二人でたくさん貴方のことを話しました。
 帰り際、お母様にもまた連絡してね、また来てねと言ってもらえました。でもわたしはもう連絡することも訪ねることもきっとないのでしょう。だって貴方はもうそこにはいないのだから。

 本当は生きている貴方に直接伝えたかった。今のわたしがいるのは貴方のおかげです。わたしの人生において貴方がいたのはほんの一瞬でした。
 でも、貴方のおかげで夢が見つかって、そしてその夢がようやく叶いそうなのです。
 その報告をしたかったのに。ちゃんと生きている貴方に。
 願わくば貴方に届いているといいな。

 お久しぶりです。あの時は、勉強を見てくれてありがとう。きっとわたしはあの時に貴方のことを好きになってしまって、だから恥ずかしくて連絡できなかったの。ごめんなさい。
 でも貴方のおかげで、あんなに反発していた学校という場所が今では大好きで、あんなに嫌いだった勉強も今では好きで、わたしはちゃんと自分の人生を歩んでいます。
 自死を選んだ貴方を責めるつもりはないけれど、できたら直接報告したかったな。
 これからもわたしは未来に向かって歩いていきます。空からそれを時々でいいから見守っていてくれると嬉しいな。
 いつかまたどこかで。さようなら。