他人の成功を、素直に喜べない。自分が目の敵にしている相手ならまだしも、親友や恋人などの、大切な人の成功にさえも、素直に「おめでとう」と言えない。

例えば、長くて孤独な戦いだった大学受験。本当に苦しかった。受験のチャンスを増やすために、通常の一般入試に加えて、推薦入試という方式の入試にもトライした。

結果は不合格。でもやり切ったから、悔いは無かった。

そんな時、私の親友が、合格した。しかも、誰もが名前を知るような超名門。

羨望が妬みや苛立ちへと変わった。心からのおめでとうが言えなかった

彼女は、あるスポーツの選手として大きな大会で何度も結果を残していて、入試もそれを活かしたものだった。彼女の努力は肌で感じていたし、本気で応援もしていた。

ただ、喜べなかったのだ。自分が、落ちたから。

「羨ましいな」という感情が、どんどん形を変えて歪になり、ラスボスのバケモノのように姿を変えて私の心に居座った。羨望が妬みや苛立ちへと変わったその感情は厄介なもので、なかなか私の中から消えることはなかった。

私の親友は、合格が決まると、次の日からほぼ全ての授業を寝て過ごした。入試本番を間近に控え緊張感の漂う教室で、昨日の夜読んだ本が面白かったという話を、意気揚々と語った。時間があるのでヨガに通いだしたこと、趣味を見つけたいと思っていることなどを、楽しそうに話した。

普段の私なら、一緒に盛り上がれただろう。だって、大好きな親友の話だから。

でも、流石にできなかった。"何なんだよ。自分が受かっているからって。こちら側の気持ちはどうでもいいのか。必死に単語を覚えて、赤シート片手にもがいてんだ、こっちは"という思いで一杯になった。

彼女に悪気はない。でも、私の中のバケモノは、歯をむき出しにして彼女に苛立ち、拒絶した。結局、心から「合格おめでとう、次は私が頑張るね」とその親友に言えたことはなかった。

親友に抱いた薄汚れた感情。羨ましく思う自分自身に負けたくなかった

私は、親友と距離を置くようになった。でも、私に残ったのは彼女に対する羨みが招いた、汚れた感情……だけではなかった。「自分の努力で彼女を見返してやろう」と思うようになったのだ。

何が何を「見返す」のかはよくわかっていなかった。ただ漠然と、自分が必死に勉強し、死に物狂いで机に向かうことで、解決できる何かがあるのではないかと思ったのだった。先に合格して楽しくヨガに通う親友にも、それを羨ましく思う自分自身にも、負けたくないと思った。

最終的に、その後志望校に合格し、進学が決まった。合格通知など、ただの結果でしかなく、その結果までの過程が重要なのだけれど、やっぱり嬉しかった。報われた気がした。

私の場合、合格への過程に渦巻いていたのは、キャンパスライフへの強い憧れでも将来に対するキラキラした希望でもなかった。大好きな人に抱いてしまった薄汚れた感情、そんな感情を抱く自分に負けてたまるかという意地だった。でも、それがなければ、合格していなかったと思う。

私はいい人ではない。でも、自分の感情に向き合うことで何かが変わる

稀ではあるけど、この世には本当に純粋で優しくて妬みや恨みなど知らないであろう「いい人」がいる。私は、少し残念だけどそういう人種の人間ではない。

でも、目を背けないことはできる。歪なバケモノを心に飼っても、見て見ぬふりをするのではなく、きちんと向き合うことで、何かが変わると私は思う。

どうして私は「いい人」になれないんだろう、と何度も自分を責めた。

だけど、自分の感情と向き合うことから逃げなければ、きっと何かが変わる。私は、そう信じている。