雨、と聞いて思い出すのは、母方の祖父母の家で飼っていた、黒い猫だ。
わたしの実家と、母の実家である祖父母の家は徒歩十分くらいの距離で、小さな頃からよく遊びに行っていた。とは言っても、「遊びに行っていた」と思っていたのはわたしだけで、実際は仕事で多忙だった母親がわたしを祖父母に預けていたらしい。

祖父母の家には猫が二匹いた。三毛猫のメスのテッテと、黒猫のオスのポンタ。わたしの姉はテッテと同じ年に生まれて、わたしはポンタと同じ年に生まれた。四兄弟だね、と小さな頃はよく言っていた。わたしはポンタがわたしの双子の片割れだと疑っていなかった。

雨の日は、臆病なポンタを人気のない部屋でゆっくり撫でた

幼稚園のお迎えはいつも祖母だった。近所の古いスーパーで駄菓子を買ってもらって、手を繋いで坂道をのぼる。わたしは幼稚園の頃から人の集る場所というものが苦手で休みがちだった。幼稚園を休む日も、祖父母の家にいた。

テッテとポンタは、家の外に自由に出る猫だった。今みたいに家の中だけで猫を飼う時代じゃなかった気がする。

雨の日は、ポンタと遊べる日だった。テッテは祖母の膝の上がお気に入りで動かず、遊んでくれることはなかった。ポンタは臆病で人間嫌いだったけれど、人気のない二階にいけば一緒に寝転んでくれることもあった。

祖父母の家は、古くもないけれど、新しくもない。かつては母親の自室だったという和室に寝転がっていると、雨粒が屋根を叩く音が聞こえてくる。隣からは柔らかい猫の匂いがする。わたしは軽いアレルギー持ちで、ポンタに直接触ることはいけないことだと教えられていたけれど、人目がないのをいいことに、ポンタを撫でていた。臆病なポンタも、ゆっくりと近づけば、わたしが触れることを許してくれた。

涙を流す時に限って、人嫌いなはずのポンタは傍で鳴いてくれた

小学校時代も、中学校時代も、わたしは周りにうまく馴染めなかった。学校に行けなくて、家に一人でいるのはよくないから、と毎朝母親に車で祖父母の家に送り届けられて、祖父母の家で勉強をしたり、テレビを見たり、ご飯を食べた。

大人たちはみんな「いつか元気になるよ」と言った。わたしはそれが苦しかった。
元気になることができない、周りに馴染むことができない自分が申し訳なくて仕方がなかった。みんなに迷惑や心配をかけている自分が心底嫌で、消えてしまいたいと思っていた。いつも祖父母の家の二階で泣いた。人嫌いなはずのポンタは、そういうときに限ってわたしの傍でにゃあにゃあと鳴いてくれた。

ポンタがいなくなった日も、雨が降っていた。
ポンタはもう弱ってきている、ということを知ってはいた。近所の獣医さんに祖父母が何度も連れて行っていたし、その数年前にはテッテがもう死んでしまっていた。もうすぐ、もうすぐポンタも、ということを、みんながきっとわかっていた。

祖父母の家に行った雨の日。黒くて温かいポンタがいなかった

ある日、いつもみたいに学校に行けなくて、泣きそうになりながら祖父母の家へ行ったら、ポンタがいなかった。黒くて丸くて温かくて柔らかいポンタは、どこにもいなかった。
春だった。細い雨が降っていた。

「ポンタはどこ?」と聞きたかったけれど、聞けなかった。祖母は珍しく静かに、数独を解いていた。祖父は外出していて家にはいなかった。

一階の、仏壇の前に段ボールが置かれていた。小さな段ボールだった。なんとなく、予感のようなものがして、段ボールを開けてみたら、その中に黒い猫が横たわっていた。触ってみたら、冷たくて、固かった。ポンタだった。

あんなに、温かくて、柔らかくて、優しかった生き物が、小さな段ボールの中で、冷たく固くなって、でもいつもみたいに丸まっていた。生き物が死ぬということの重たさが、あの小さな箱の中に詰まっていた。それはポンタの命の重たさだった。

わたしは泣かなかった。こんなにもあっけなくいなくなってしまうということを、受け入れられていなかった。たぶん、祖母は泣いたと思う。
春の雨の日には、ポンタのことを思い出す。わたしの双子の片割れ。いつも、わたしが一人で泣いていたら、必ず見つけてくれた、大切な大切な兄弟。