幼い時から雨や雷が好きだった。部屋の隅の暗がりで膝を丸めながら、地面を叩きつける雨の音や、ここぞというタイミングを待ちながらゴロゴロと鳴る雷を聴く。そうすると抑えきれない心のざわめきも自然と静まっていった。
子供ながらに息苦しさを感じる周りの全ての汚さを、雨が洗い流してくれるような、そんな錯覚の中で恍惚とする姿は、側から見ると少しおかしな子供に映ったらしい。
ビニール傘を置いて帰る彼。我が家の玄関には少しずつ傘が増えた
学生時代、アルバイト先の店長に惹かれ、ひとときを共に過ごした。
離婚とともに離れ離れになった息子を1番に大切にしている、そんな人だった。勤務が終わり、我が家でたわいのない話をしながら眠りにつくことが頻繁になっていた。
彼も雨の音が好きで、スマートフォンで雨音を流しながら一緒に眠りについたが、土曜の夜は必ず「明日は息子と会える日だから」と早々と帰って行った。1人きりの夜の過ごし方を忘れてしまった私は、一緒に撮った写真や動画を見ながら雨の音を聴き眠りについた。
だから、雨の降る夜に彼がやって来ることに殊更、特別感を抱いていたのかもしれない。
基本的な移動手段は原付だった彼だが、雨が降った日には店に余ったビニール傘をさして歩いてやって来た。そんなときはタオルと温かいお茶を用意して待っていた。家に着き真っ先にシャワーを浴びた彼の頭を撫でる時、自分と同じシャンプーの香りがするのが好きだった。
そして翌日雨が止み、彼が持って来た比較的古びたビニール傘を置いて帰るたび、我が家の玄関にはビニール傘が少しずつ増えていった。
彼の言葉に何も言えない私。「帰る」と腰を上げた彼の目には涙が…
彼は繊細で、そしてわがままな人だった。私はそんな彼とずっと一緒にいるにはあまりに不器用で、ハリネズミのジレンマのように近づきすぎては傷つけあった。
ある雨が降りそうな夜に語り合ったことを覚えている。鉄の混ざったようなにおいが鼻を掠め、空気が肌に纏わりつく夜だった。
「息子を1番大切にしたいのに、このままだと自分の優先順位が変わってしまいそうで怖いんだ。」と彼は言った。
その先に続く言葉はなく、私は何も言えなかった。
「私は1番じゃなくてもいいよ。」「どんな優先順位でも私は離れていかないよ。」
どんな言葉を口にしたところで、所詮彼の気持ちに100%寄り添うことなんてできない自分勝手な発言になってしまうと思った。
朝方になって「帰る。」と腰を上げた彼の目には、涙が滲んでいた。
背中を抱きしめたかった。頭を撫でたかった。
でも、言葉にならない思いを飲み込んで、虚しく閉まったドアを見つめるしかできなかった。玄関に座り込み、まとまらない感情を抱えて声を上げ泣いた。
雨が降り始めていたこと、彼が傘をささずに出て行ったことに気づいたのは、かなり時間が経ってからだった。
ビニール傘を見ると、彼のことを思い出す。私は一人で雨音を聴く
私と彼が一緒に過ごすことは徐々に日常ではなくなっていき、私は1人で雨の音を聴きながら眠る夜を過ごすようになった。帰宅してふと目につく沢山のビニール傘が胸を締め付けた。
今でもビニール傘を見るとふと思い出す。自分勝手で、でも不器用な愛情をぶつけてきた彼を、自分は決して1番にはなれないのだと痛感した土曜の夜を。
それでも私は雨が好きだ。悲しさ、苦しさ、醜さ、抱え切れない心の淀みを洗い流してくれる気がするから。