「20そこらの若造が」と言われてしまいそうだが、人生の中で「もう立ち直れないかもしれない」「家から出たくない」と思うほど、絶望の淵に突き落とされるような苦境に立たされた経験というものが私にも存在する。

これはミッションスクールの学舎で得た教訓なのだが、私の好きな言葉の1つに “あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます”という聖句がある。

本当に辛いと思った時に、この言葉を思い出すだけで前を向けるエネルギーが湧く気がしたし、その辛さに向き合う勇敢さをくれる原点のようになっている。

そうかそうか、この辛さは自分が乗り越えられると見込まれて起こった出来事であり感情なのかと思うと、救われる思いがするのだ。

私がとてもしんどさを感じていた時に、ここで言う「耐えられるような逃れる道」を探すまで一緒に歩みを進めてくれた「あの子」。いなかったら、前を向けなくて逃げ出していたかもしれない、と思うと今でも感謝あふれる気持ちが止まらない。

華やかな舞台で輝くことを夢見て、私は相当な練習を重ねていた

中高一貫校に通っていた私は、部活で宝塚のようなミュージカルをやっていたのだが、校内では花形と呼ばれるだけあり、中々のシビアな上下関係とかなりのプライドの持ち主たちが集う環境だった。

どの先輩は誰と仲が良いとか、新しく入ってきた後輩が美人だとか、そんな噂話がひっきりなしに耳に入ってくる毎日で、狭い社会に生きていた当時の私はそんな出来事に一喜一憂する日々を送っていた。

そんな生活を送って3年目の中学最高学年を迎えたちょうど梅雨の頃、毎年開催している文化祭のステージに向けた恒例のオーディションがあった。

歌とかダンスとか演技を先輩の前で披露して配役が決まるというもので、当時の私たちには一大イベントだったし、これで半年くらいの自分のポジションが決まると思うと、それだけで空気はピリついていた。

苦手なダンスなんかは相当な練習を友達と重ねたし、私も一段と気合が入っていた。華やかな舞台で自分がメイクをして輝ける日を夢見ていたから。

先輩とも仲良くなりたいし、後輩にもすごいって思われたいし。憧れの先輩のようにキラキラとあの舞台に立ちたい。そんな思いは日に日に増していった。

配役がつかず、裏方に。人目を憚らずに、私はわんわん泣いた

そして配役発表日、自分の名前があることを何度夢に見ただろう、期待に胸を膨らませながら、心臓の音が頭に鳴り響くぐらい鼓動の早さを感じながら探した。隅から隅まで。

ところが自分の名前はどこにも書かれていなかった。その場で崩れ落ちて、はじめて人目を憚らずにわんわん泣いた。

同学年のほとんどが何かしらの配役についていて歓声が沸き起こっている中、号泣している自分が情けなかったし、その日から裏方の仕事を半年続けるかと思うと、意識がどこかへ飛んでいきそうだった。

そうは言っても逃げ出すことはできない。活動の初日、重い足を運ぶと実は私と同様に舞台に立つことができなかった同学年の「あの子」が隣にいた。

「あの子」は少し目立つところがあって、人よりのんびりとしていたり、笑い方なんかもおばさんのようにガハガハと笑ったりする風変わりな面を持っていた。そんな訳だから私はあまり仲良くすることはなかったし、ましてや一緒にこの半年過ごすかと思うと、余計に気分が盛り下がる気持ちもしていた。(その当時は)

暗い顔をしてその場に立っていた私に「あの子」は明るく言った。
「一緒に頑張ろうね。裏方があるからこそ、主役が引き立つ。私たちが作れば最高の舞台ができるよ、きっと」と。

これまで悪い側面しか頭になかった私にかけられたその言葉は自信をくれたし、そのつらい気持ちも、なぜだか与えられた試練なような気がしたのだった。

「裏方がいるからこその主役」。あの子の考えが私を救ってくれた

その後も「あの子」は半年にわたって、私の将来の夢とか悩みとか兎にも角にも心の奥底をゆっくりと聞いてくれた。実はそれから引退をするまで、私は裏方をやり続けた。それは、「あの子」が教えてくれた「裏方がいるからこその主役」の考えが自分を救ってくれたから。

「あの子」がいなかったら、試練を乗り越えられず、中高時代の思い出をこうも振り返れなかったかもしれない。

20代も半ばに差し掛かると友達の数も限られてきて、「会おう」とわざわざ言い合える相手が少なくなった気がするが、「あの子」には必ず定期的に会うようにしている。

そして「あなたがいたから今の私があるのよ、ありがとうね」と伝えては、過去を振り返ってガハガハとお腹を抱えて笑い合う時間を過ごすのだ。

腹心の友よ、これからも宜しく頼むよ。