大雨が降った週末、だれとも遊ばすに得た安心感
私は大雨の日が好きだ。雨の日は外出せず、家でだらだらしていても、お天気が許してくれている気分になる。「無理して外に出なくていいよ」と。
こういうことを思うようになったのは、もっと小さい時からだった。
最初に感じたのは小学生のころ、大雨が降った週末、だれとも遊ばすに得た安心感だ。自分の部屋にいて、ぼーっと外を眺めていると心から自分でいられる、生きているという感じがして不思議だった。
すでに2、3歳のころから活字が読めた私は、自分の脳力をアピールすべく大声で本屋で朗読を披露し、家族からはまるで神童のように扱われた。そんな環境で私は、小さい頃から褒められよう、認められようと、周りの人の目を非常に気にする子供に育った。
小学校に入学してからも大して勉強しなくても頭が良くて、クラスでも人気者の地位を勤め上げようとした。親からも、友達からも、先生からも「あの子はすごいね」と期待される、立派な人間になるべきだと思っていた。
当然、そんなスーパーマンではないのだが、優等生の私の「こうでなきゃ」という意思は強固だった。
小学生の人間関係は、超ハードモードの難関だった
勉強のほうは、至って私に優しかった。こちらが頑張れば頑張った分、わかりやすく数字で返してくれる。授業を普通に聞いていれば間違って意味を取ることもないし、急に態度を変えて裏切られることもない、良い友達だった。(実際ほとんど勉強しなかったが、テストはほとんど100点だった)
ただ人間関係は、生まれてまだ数年の私にとっては超ハードモードの難関だった。勢力争いをする人気者グループ、すぐにハブられる取り巻き、人気者の気まぐれで変わるいじめられっ子、絶対に提出期限を守らないといけない交換ノート、1年おきに変わるクラスに席替え、初恋の人で揉める親友同士。
小学生なのに、さながら大帝国ドラマだ。(小学生の日常は大人が思うよりドラマに満ちている)
私のポジションといえば、一番目立つ子の取り巻きで、可でも不可でもない八方美人。誰とでも仲良くできるタイプだが、一方で本心で心を許せる人はほとんどいなかった。
人気者グループの中にも序列があり、取り巻きの子には決定権はない。中心にいる一番目立つ子たちが何をするか、ルールを決めて、私たちはひたすらそれを守るのが遊びだ。
これが6年も続くとくれば、小学生といえども心労は計り知れないだろう、大人の皆さん。
私は若干10歳にして、気を使い続けるこの環境に疲れ果てた。優等生でいても、親や友人や先生に本当に理解されている気はしなかった。人気者になりたいという自分のエゴと、それに反比例する人望のなさにはもう薄々気づいていたが、それを言い表す言葉を持ち合わせていなかった。だからいつも、週末は人気者の子たちに合わせて、楽しくもない遊びに精を出していた。
雨が降ると、家でいかに充実した時間を過ごせるかとわくわくする
そんな4年生の週末、雨が降った日は私の心を軽くした。あの人気者たちに合わせて、無理して笑わなくてもいい、貴重な一日に。
天気という存在は身勝手だ。私たちの中にある見栄や人間関係のこじれを全く気にかけてくれないし、いい意味で全く空気を読まない友人のようだ。そういう人に、救われる週末もあるのだと、10歳のときに知った。
私の周りにそんな友人がいたら、私にそこに踏み出す勇気があれば、私は雨の日を好きにならなかったかもしれない。
25歳の今、私は故郷を離れて大都会東京でこの文章を書いている。でも窓から見える雨空は、どこで見ても同じ灰色だ。今だに雨が降ると、いつも家でいかに充実した時間を過ごせるかと考えて、少しわくわくする自分がいる。
どこで見上げても同じこの灰色の空は、大都会東京でも、日々その雑踏に身をすり減らし、外側を塗り替えて生きる私たちに時たまの許しをくれる。
そう、今週末はがんばらなくていいよ、と。