私の両親は共働きで、近くに住んでいた祖父母の家に物心つく前から日中はずっと預けられていた。祖父母にとって私は可愛くて仕方なく、孫馬鹿と呼ばれるような祖父母だった。

特に祖父は地元の町内会で役員を務めることもあり、近所を孫と散歩することが楽しかったみたいだ。祖父は自身の子どものオムツ交換もしてこなかった人であったが、私のオムツ交換は誰よりも祖父が一番してくれていた。当時の私は、両親が仕事終わりに祖父母の家に迎えに来てくれるのに帰りたくないと駄々をこねて両親を困らせていた。

何でも与えてくれる「大好きなおじいちゃん」だったのに……

祖父母のことが大好きだった。特に祖父は私のことをとことん甘やかしてくれた。平日に祖父と祖父のお気に入りの喫茶店に行き、食べたいものを食べさせてくれて、欲しいものを買い与えてくれて、教育上はよくないのかもしれないが私にとって、祖父はなんでもしてくれる“大好きなおじいちゃん”だった。

私も学生となり、学校生活が長くなり祖父母と共にする時間は減ったが、学校が終わると祖父母の家に行き両親の帰りを待っていた。習い事の迎えも祖父母が来てくれていた。低学年の頃は何も感じなかったことが学年を上がるごとに、少しずつ違和感となっていった。

習い事の教室の前にあるベンチでいつも待ってくれている祖父を、いつの間にか恥ずかしいと思っている自分がいた。他の友達は母親が待っていて、どうして私だけ祖父なんだと思うようになっていた。

習い事が終わりドアを開けたら笑顔の祖父が待ってくれているのに、私は不貞腐れて祖父を無視し、帰る。そんな私の後ろを祖父は歩く。そんな日常が続いていた。

深夜3時に病院へ向かう。そこには酸素マスクを外した祖父がいた

ある日を境にその日常も止まった。祖父が癌になった。

入院してから数日もしないうちにどんどん弱っていく祖父。

何も話せなくなって上を見つめて身体中に管が付いている祖父の姿をずっと覚えている。

それからは一人で電車に乗り、病院へ通った。毎日のあったことを祖父の耳元で話す。祖父からの返事の言葉はないが、質問すると瞬きで返事をしてくれた。平日は病室で宿題をし、土日は両親や祖母と病院に行き、できる限りの時間を祖父の横で過ごした。

ある日、夜中の3時に両親に起こされて寝ぼけながら車で病院に向かったあの日を鮮明に覚えている。酸素マスクを外された祖父とその横で泣き崩れる祖母。医師と話す両親。それから通夜、葬儀、四十九日とバタバタと過ぎていき、祖父のいない日々が始まった。

おじいちゃん、私社会人になって、恋人もできたんだよ

10年以上経った今でも祖父を思い出して会いたくなる。

今、祖父が私の姿を見たら「おおきなったなぁ」と優しく言ってくれるだろうか。大学を卒業して社会人になれて、一人暮らしを始めて、恋人もできたんだよ、と話したいことが沢山ある。

もしも、ひとつだけ、祖父に伝えられることができるとしたら「あの時、毎日迎えに来てくれてたのにありがとう一つも言わないで、おじいちゃんを無視して帰ったりしてごめんなさい」と言いたい。祖父はきっと「気にしてへんよ」と笑顔で答えてくれるだろう。

今もずっとおじいちゃんのことが大好きだよ。今夜、夢で逢えますように。