「ルール」って、なんだろう。
「あいさつはするのが礼儀」だとか、「年上だから敬語を使いなさい」とか「人は殺してはいけません」とか。

確かに、ある程度制限がないと世の中は犯罪だらけになってしまう。

でも、だからといって、そのルールを破った人が「悪い」みたいな扱いに納得ができなくて、わたしは物心つく前から気持ち悪い違和感を感じていた。

職場で敬語を使わないと「調子にのってる」と悪いうわさを流された

中学のときは、宿題を「ゴミ箱に捨てたからありません」といって本当に捨てたこともあったし、ニュースで流れる殺人犯の動機に「あぁ…殺めてしまうほどに苦しくて、誰にも助けを求められんかったのか。もしわたしが友達なら、話を聞くことくらいはできたのかもしれないよな」と、“そうさせてしまった環境”に苛立った。

職場で煩わしい敬語を少しでも抜けば、おばちゃんに「その口調、あんた役職もってるの?上から目線で、調子のってるよね」と見下され、あることないことの悪いうわさを流して、居場所を消そうとされた。

きっとこの違和感って、「同じ人間なのにどうして?」から来てる。

わたしたちはみんな同じ人間なんだ。男だから強く、女だから上品に、上司だから、部下だから、親だから、先生だから……そうやってくくりつけられる“縛り”みたいなものが、とても窮屈で生きづらかった。

人間だから、色んな物事や問題を「はい」の2文字で終わらせられるなら、もうそれはロボットでいいんだ。

「はい」の裏には「言ったらめんどくさいことになるよな」とか「言ったところでこの人は理解してくれないだろうな」とか、そういうものネガティブな経験から来ることが多い気がする。

「敬語でいなくていい理由」を考えてみた。答えはすぐに出た

わたしは就職して、今年で5年目になる。
同僚や上司、年配の人や先輩後輩、色んな人と仕事を通じて、“家族”のように支え合ってきた。

1人1人が人として魅力的で興味深くて、何が好きで嫌いだとか、様々な考え方に興味が沸いて仕方なかった。

その人たちの笑顔がみたくて、冗談も言ってしまうほど大好きな人たちだ。

わたしは、その“家族”の距離感で「敬語」でいなきゃいけないという暗黙のルールが煩わしくてたまらなかった。

敬語に心の壁のようなものを感じて、それを取っ払いたかったわたしは、「敬語でいなくていい理由」を考えた。

答えは、すぐに出た。
「その人と、対等でいること」だった。

それからわたしは、煩わしい敬語をやめるために 今まで以上に仕事に熱を注いだ。
知識が豊富な上司には、知らないことを0にするために、色んな質問をした。
器用になんでもこなす先輩には、やり方のコツを聞きにいった。
力持ちのおっちゃんには、毎日の食事と筋トレのアドバイスをもらいにいった。
愛嬌のある後輩には、笑顔でいられる考え方について聞いた。

同時に、「一人一人を愛して、素直に認めることができる人」を目指した。

両手を振りながら「バイバイ!」と言える後輩が愛おしい

その小さな積み重ねが、自信につながり、考えの幅が広がっていった。

そして今では、上司が嫌そうに持って行く不良品を、「あ、ついでだから持ってくよ!~さんのとこでいいの?」と持って行き、~さんには「ごめんね。~さんがいつも綺麗に直してくれるからすごく助かってるよ、ありがとう」と、素直に一人一人と正面から向き合う努力をしている。

後輩には「まじっすか!?あ、ごめんなさいっ!」と敬語が砕けすぎたことを謝られ、
「まじまじ!(笑)わたしには全然砕けた感じでいいよ!そっちのが嬉しい!」と、後輩から見て“先輩”ではなく、“お互い尊重しあえる友達”でいるようになっていた。

その後輩は、今日「お疲れ!」って言ったら「お疲れ様です!」と言って全開の笑顔で両手を振り、「バイバイ!」と言ってきて、とても可愛くて愛おしかった。

今のわたしは、頼み事をする時以外はフランクな口調になっていて、気づけば社会人の“ルール”をうまい具合に破ることができてしまっている。

今じゃ、わたしが敬語を使わないことを責める人は一人もいない。
そうさせない環境を、わたし自身が作り上げたから。
これが、わたしの生き方の答えだと思えた。

ルールに縛られて、自分の気持ちや意見を言えなくなるのはとても苦しい。

もし、みんながみんなで、いいところも悪いところも認め合って、補い合っていけるのなら
それほどに最強の環境はないと思う。幸せなことだ。

だからわたしは、「職場では、上司や先輩に必ず敬語を使わなければいけない」というルールがあるなら、「上下関係問わず、親しみやすくて気づいたら敬語が抜けているような、みんなが自分の意見を言えて、認め合える環境」を作り、気づかれないように破って、破らせてしまいたい。