わたしは、折りたたみ傘がたためない。

几帳面なくせに根っからの不器用で、上手くたためなくてぐしゃぐしゃになることが許せなかった。
それでも、天気予報を見忘れたり、大きい傘をどこかに忘れるわたしのような子供には、折りたたみ傘というのはやはり便利なもので、社会人になるまではそれなりに使っていた。

「ねー、これ、たためないの」。折りたたみ傘は人に甘える常套手段

でも、重たい雨に濡れたオレンジ色のそれを、自分でたたむことはほとんどなかった。

「ねー、これ、たためないの。たたんで?」
わたしにとって折りたたみ傘は、まわりの人に甘えるための常套手段であった。
もちろんそれは好きな人に。気になる人に。仲の良い子に。男女問わず色んな人にお願いした。小学校の同級生なんかは、わたしに頼まれたことのない人の方が少ないのではないだろうか。
しっかり者タイプな幼少期だったから、ギャップを演じたい策士的な部分もおそらくあった。女は幼くして女、とはよく言ったものである。
しっかり者のわたしが、実は折りたたみ傘たためない、ってちょっと可愛くない?

それに、頼めばみんなわりと応えてくれるのだ。
いつも粗雑でガキ大将みたいだったアイツも、「なんでだよ……」とか文句を垂れながら太くて短い指でわたしのオレンジ色の折りたたみ傘をたたんでくれた。
なにより、好きな人が不器用そうにたたんでくれたそれは愛おしかった。
開いてみるとたたみシワが残って、お母さんには怒られたけれど、くしゃくしゃな折りたたみ傘のことは好きになれたのだ。

いくつになってもやっぱり、わたしのたたんだ折りたたみ傘が嫌い

女子しかいない高校に進学して、「これたたんで?」なんて甘える相手がいなくなって、わたしは折りたたみ傘を使わなくなった。
専門学校に通った1年間は周りからとにかく甘やかされていたので、新しく折りたたみ傘を持った。たしか白地に錨の模様とボーダーの入ったマリン柄だったっけ。

社会人になると、必然的に一人の時間は増える。そんなに都合よくいつも周りに人がいるわけじゃなくなる。そうなって、また折りたたみ傘を手放した。
いくつになってもわたしはやっぱり、わたしのたたんだ折りたたみ傘が嫌いだった。マリン柄のそれは今、実家の祖母が使っているらしい。

学生じゃなくなって約8年。わたしは今も折りたたみ傘を使わない。

折りたたみ傘がいかに便利であるかはよーくわかっているから、大体いつも「折りたたみ傘が欲しいなあ」と思っている。
それでも所有しないのは、本当はもう、折りたたみ傘をたたむことができてしまうかもしれない、からかもしれない。
…推測が多すぎる。実にわかりにくい文章だ。

「折りたたみ傘がたためない」のは、ひとつのアイデンティティだった

つまり、わたしにとって「折りたたみ傘がたためない」ことは、ひとつのアイデンティティであり、かつ大人になることへのささやかな"抵抗"なのかもしれないということだ。
もう8年も触れていない折りたたみ傘は、27歳にはあっさり使いこなせてしまうものなのかもしれない。
もし今再び手に入れて、いとも簡単にたたむことができてしまったら、わたしはこれまで貫いてきたアイデンティティをひとつ失うことになり、同時にその子供っぽさも失って、きっとまたひとつ大人になってしまうのだ。

できないことをできるようになること。できたことができなくなること。
それはたぶんどちらも、ひとつ大人になることだ。

「かぼちゃが嫌い」「派手な服装が好き」「カフェオレが好き」「DIA14.5mmのカラコン」……そんな小さなアイデンティティをひとつ失うたび、ひとつ大人になった。
かぼちゃは美味しい。派手な服装は好きだけどもうできない。カフェオレはくどくて飲めない。カラコンはでかけりゃいいってもんじゃない。
気づけば立派に、立派な大人だ。

わたしは、折りたたみ傘をたたまない。
それは抗うことのできない時間の流れと、止めようのない自分の成長に対するわたしのささやかな"反抗"だ。