私の父はクズ男だった。
保育園時代こそ共働きだった記憶があるものの、小学校低学年の頃には帰宅すればテレビを見ているかゲームをしている父がいた。母には強い国家資格があった為、母のみでも収入には困らなかったのが彼の怠惰のスイッチが押されたきっかけの一つであるのは確かだ。

そしてその分、夫婦喧嘩も絶えなかった。
母は毎日、それこそ土日も返上して働いた上、私の記憶している限り家事も担当していた。父はパチンコやゲームに明け暮れていた記憶しかない。

働き、家事をする母と何もしない父。母がどんどん疲弊していた

小さい頃の私にとっては、悪くない父親だった。

自分に甘いが他人にもそこそこ甘い父は、子どもにはことさらに甘かった。基本的に無作法でも父から怒られることはほとんどなかった。少し嫌なことがあって小学校をサボりたい日はサラッと熱があることにしてくれ、お昼ご飯は外食、そのあと漫画喫茶に連れて行って遊ばせてくれた。

今思えばそのお金は全て母親の稼ぎからだし、おそらく普段から同じように遊んで過ごしているのだが、子ども心には遊んでくれるまあまあいいお父さんだった。

「お年玉を倍にして返す」と言って持って行ったあとスナック菓子だけ返されたり、喧嘩の際にお気に入りのごはん茶碗を割られたりしたことぐらいが、ちょっとやだな、と感じる程度だった。

そんなふうに娘はのほほんとしている中、母だけはとにかく頑張っていた。

2人の小さい娘と、母曰く産んだ覚えのない大きい息子のため、働き、食事を作り、掃除をし、洗濯をしていた。その上でどうにか父が何か家の為にしてくれないかと試行錯誤を繰り返していた。お小遣い制にしてみたり、別居をしてみたり、最後には父の好みに合わせた家を建てたりした。もちろん費用は全部母の収入から出ている。

ただその努力も虚しく、父は何もしないという事実だけが母には突きつけられていた。

私も小さい頃こそ遊んでくれる父に対して好意を持っていたが、母がどんどん疲弊していき、家庭での喧嘩が増えていくにつれて、「この人は、何かおかしいのでは」と感じるようになった。

母の大きな決断。父は母から生活費をもらって家を出て行った

私が小学5年生に上がる時、とうとう母は大きな決断をした。この1年の間に家事に専念するようになる、もしくは外で働き始める、どちらかをしない限り父とは離婚する、と。

結果としてその決断は1年延びて、私の中学受験が終わり、中学に入学した直後の5月にマンスリーアパートの2年契約と向こう1年の生活費を『母が父に払って』離婚する、という形で終着を迎えた。

これだけ搾り取られて母に残されたのは頼りない私たち二人娘とローンの残ったデザイン性だけ無駄にいい戸建て一軒だった。父は養育費も慰謝料も一銭たりとも払わず、その上一年間遊んで暮らせる権利を手に入れホクホクと籍を外して家を出ていった。

母はよく父について話す時に「仕事か、家事か、私に『お疲れ様、いつもありがとう』と毎日言ってくれるか、どれか一つでもしてくれていれば離婚してなかったのに」と言う。

それを聞く度に母はあんなに苦労して報われなかったのに、それでも父を嫌いにはなりきれていないのか、と思う。

「家族を愛してくれれば良かったのに」。責任能力のない父に言いたい

結局父は離婚したあと1年間、母から貰ったお金で遊んで暮らし、お金が無くなった頃に母に泣きつきに来た。離婚後だぞ?とさすがに当時中学生の私も呆れたが、けんもほろろで援助は受けられず、その後はとうとう就職をしたらしい。

余談だが、お年玉の額が遊んで暮らしてた年だけ異様に高く(パチンコで勝ったらしい)、その次の困窮した年は前年の10分の1に減った時は子どもながらに笑ってしまった。
つまるところ父は他人のためには微塵も動けず、自分が本当に死ぬかもしれないとならなければ何もしない人だったのだ。責任能力のない人、それが父だった。

言いたいことがあるとすれば、ただ一言だ。

「家族を愛してくれれば良かったのに」

彼にとって母は都合のいい財布だったし、私たち子どもは暇な時のただの遊び相手だったのだろう。家族として愛すること、家族の一員として自分もその家庭自体を愛して行動すれば、多分まだ父は戸籍上の父だった。

大人になった今、父に会うのは数年に一度。父方の祖父母宅に正月挨拶に行くとたまにいることがある程度の人だ。

「私たちのことを愛してた?」と聞く勇気は未だに出ない。