高校1年生の冬に、お母が死んだ。
脳出血で倒れて、一週間、目を冷まさないまま死にました。
お母の最後に聞いた声は「いってらっしゃい、気をつけてね」でした。
もう、「おかえり~はやかったねえ」と言われることはありません。
私は、お母が好きだったのです。
母が死ぬ直前、兄や父を見て「私がしっかりしなくちゃ」と思った
お母が死ぬ直前、病室内で泣き叫んだことは忘れません。
お母はまだ生きているのに自分で生きようとしているのに、医者は「お母さんに最期の言葉をかけてあげて」なんて言ってくる。
その中で、お兄は貧血になって座り込んじゃうし、お父さんは意識が飛び、白目になりながらも「あーーー、あーー〇〇、〇〇、あーー」とひたすらにお母の名前を呼んでいました。
お母が死んでしまうことよりも、その時は、お兄やお父さんがこんな風になったことが怖かった。人は弱いのだと思いました。
私がしっかりしなくちゃいけないと、初めて思ったんだ。
家族の中で学歴も何もかも出来損ないで、自分に自信を持てない私が、私ができる面でちゃんと家族を支えなくちゃ、と思ったんだ。
なので弱い自分にならないために、なにがなんでもお父さんの前で泣かないと決め、それを7年間守ってきたのです。
頑張った大学受験。思いがけない大学に進学でき、父に認めてもらえた
お母がいなくなってから食事や洗濯、家事を全て担うようになりました。生活費はお父さんが稼いでくれるおかげで、生活に必要なことを負担するだけでした。案外お母がいなくても、生きてけるのでした。
それから、私は「ちゃんと」とするために、お父さんに迷惑をかけないために、学生生活も程よく楽しみ学業もするような、お父さんの理想っぽい娘になりたいと思うようになりました。
お母がいないことで可哀想な目を向けるだけの大人に対しても、私は自立できますという姿勢を見せたいと思うようになりました。
なので大学受験も自分なりに頑張りました。出来損ないの私が合格するには、お父さんもびっくりな大学に進学できたのです。
ちょこっとお父さんに認めてもらえた私は、お父さんと対等にできる会話も増えました。今までお父さんは亭主関白で、偉大で完璧な人だと思っていましたが、すごくすごく子どもだということを知りました。
嫌いなところはあるけど、父には可愛いがあることも見えてくるように
喧嘩すると意味不明自己中な理論をぶっこんでくるし、何かと全てを言い返さないと気が済まないし、外食へ行くと店員さんにはいつもマウントをかけていく。外国の方への変な差別発言するところも大嫌い。
だけど、お父さんがたまたま買った白くまアイスを私がむっちゃ美味しいと言うと定期的に買ってくるようになったり、可愛い面があるのも知りました。いつも口数が少ないのは、自分の気持ちを伝えることが苦手だからなのも知りました。どうしても差別発言っぽくなってしまうのは、私の知らない過去を経験しているからなのも知りました。
私はこんなお父さんに私をここまで育ててくれてありがとうと、もう少しだけお世話になりますと、感謝を伝えたくて、最初、この文章を書くつもりでした。
でも、どこか、なぜだかわだかまりが残る。この「ありがとう」がどこか自分の言葉じゃない気がします。
どうしてわざわざ、感謝を改めて伝えようと私は思っているのだろう。
お子ちゃまな自分も言葉にして。寂しい気持ちも隠さず生きていく
本当は、寂しいんだと思いました。
お母がいないのも寂しいんだ。「ちゃんとしてる自分」の像を確認してほしくて、心配かけたくなくて見栄を張っているのかもしれません。お父さんの中では、娘息子に興味があると思っているのかもしれないけれど、もうちょっとだけ、興味を持ってほしいんです。
成人式の時も、おめでとうの一言だけでもほしかった。女家族がもういないから、袴着ようかなとなんでか言いづらかった、言えない自分も気付かないお父さんもとっても嫌だった。
夏に髪を40cm切ったのは、3年付き合った彼氏に振られて伸ばす理由がなくなったからなんだ、そしたらSNS全部ブロックされたんだって、そんなことも笑って話せるようになりたかった。
私はきっとお父さんに感謝の気持ちを伝えると言う名目で、私のことを少しでも気にかけてほしいのだと思います。
本当は、お父さんの理想の「ちゃんと」なんて全く意味なくて、「私」を生きなきゃいけないのだとも思います。
でも、私はまだまだお子ちゃまです。
けれども、ちゃんと自立した自分になりたいからと言って、寂しいと思ってしまう気持ちを自分自身にも隠すことはきっと違う。と思うので、私はこんなお子ちゃまな自分も言葉にしてみます。
これをお父さんの前で読んだら、多分、私は泣いちゃうのかもしれません。