休日。伸び切った髪をそろそろ何とかしなければ……と、美容室に行くために地下鉄に乗っているところで、ある親子連れが目に留まった。

小さな幼稚園くらいの女の子と、そのお父さんで、女の子は隅っこに暮らしているという噂のキャラクターの人形を抱いていた。微笑ましさに目を細めると、女の子の顔がくしゃりと歪み「イヤイヤ!」と喚き始めた。お父さんは困ったように「帰ったら○○の好きなお菓子食べよう!」と説得を試みている。女の子はしきりにイヤイヤ攻撃をしつづけているのだが、どうやら察してみるにさっきまで一緒だった母親と別行動になったらしい。イヤイヤは、"ママじゃないとイヤイヤ"という事みたいだ。

思えば、父親と2人きりの機会がめっきり減ったことに気づいた

そういえば、私自身最後に父親と2人になったのはいつだろう。流石にもう社会人だし、イヤイヤしているわけではないのだが、思えばめっきりとそんな機会が減ったことに気づいた。

私の父は、私の前だと途端に静かになる。
三人きょうだいの中で唯一の女である私は、昔々たいそう父に可愛がられたと聞く。1日1つ、仕事帰りにぬいぐるみを買ってきては、それを私が寝ているベビーベットに並べ「お姫様みたいだね!」と喜んでいたらしい。(母は呆れ果てていた)

しかし、そこまで可愛がっていた娘が、そんな大事にされていたとは露知らずに、「お父さんの靴下と一緒に洗濯しないで!」「お父さん汗臭いからこっちこないで!」などと言う様になってしまったのだから、当時はかなりショックを受けていたのだろう。
高校生のときなんかは「クソじじい!」と言い放ってしまったこともある。流石にいまは反省をしている……。

話を戻そう。
私の父は、私の前だと途端に静かになる。それは前述の反抗期があったことも理由のひとつで、あとはやはり異性の子供という点が大きいのだろう。

普段は真っ直ぐに伝えにくい、「ありがとう」を言える良い機会

そんな父が唯一、自分から話しかけてくるとすれば、それは見るからに寝坊した私が慌てふためいてるときだ。
「送ってってあげるか?」
その言葉は中学、高校、そして社会人になった今でも変わらない。(私は現在も実家にお世話になっている)
私はその言葉を聞くたびに、少し嬉しくなる。
何故かはよく分からないが、こんなどうしようもない娘を未だに大事に思ってくれていることが、その一言だけで十分に伝わるからかもしれない。
そして、普段は恥ずかしくて中々真っ直ぐに伝えられない「ありがとう」を言える良い機会だった。

もちろん、車内では沈黙が続くのだが、それはよしとする。

そんな不器用だけど優しい世界一の父は、この頃体の調子が悪い。というか病に冒されている。拡張型心筋症といって、簡単に言うなれば血液のポンプの役割を成す心臓の一部が肥大化し、全身に必要な量の血液が送れなくなるというものだ。
文字に書いてみると淡々としているが、これがけっこう怖い病気で、いつ心不全を起こしても不思議ではない。

「調子が悪い」と病院に行った日、はじめて親がいなくなってしまう恐怖感を覚えた。「いつまでもあると思うな親と金」とはよく言うが、お金は置いといて、たしかにいつまでも親が一緒にいて、私の面倒を見てくれるわけではないのだ。当たり前のことをようやく実感した。

検査入院の日、父は至る所にチューブやら針やらが刺さっていた。病室でそれを目の当たりにした私は、こっそりとトイレに行き、個室で大泣きをした。戻った時になんともないフリをしたが、きっと母は全てお見通しだったのだろう。
いつだって我々子供の前で母という人はたくましく、「まったく、すごい重症みたいな見た目ね!」と笑い飛ばしていた。

あたふたと不器用にボタンを閉めている様子に、ふっと笑みがこぼれた

いまでは通院と薬で普通に働けているが、あの日を忘れてはいけないなとおもいながら、パサパサと落ちていく自分の髪の毛を見つめた。

「おつかれさまでした~!スッキリしましたね」
クロスを外しながら美容師さんが言う。長かった髪は、耳あたりまで短くカットしてもらった。本当はそんなつもり、なかったんだけど。
少し新しい自分になりたくて。

るんるん気分で帰宅した。途中でショーウィンドウに映る自分をみて、別人の様な姿にドキドキする。
家に入れば、母親の靴はなかった。出かけているのだろうか。
父は家にいて、慌てた様子でシャツに袖を通している。ちらっと私が帰ってきたのをみて「おかえり」と言ってくれたが、どうやらかなり急いでいるらしい。
「どうしたの?」
「18時に待ち合わせで、慌ててるところ」

5分後じゃないか。あたふたと不器用にボタンを閉めている様子に、ふっと笑みがこぼれた。
「送ってってあげるか?」

車内ではもちろん会話は生まれなかった。
ラジオからはいまTikTokで話題の曲が流れていて、父は私とのドライブに慣れていないからか、しきりに窓の外を見ていて。それもなんだか可笑しかった。

あのぬいぐるみを持った女の子に、「お父さんと2人も、案外楽しいもんだよ」と、教えてあげたいもんだ。