あの夏の挑戦。今までで一番のそれは会社を辞めたことだ。
　新卒で入ったドラッグストアはシフト制で、朝7時半から会社に行く時もあれば夜の11時に仕事が終わる時もあった。書くのも躊躇してしまうくらい話の通じないクレーマーもいた。
　客商売なんて一度もしたことないのにその仕事に就いた理由は単純で、内定がなかなか出なくて焦っていた時に内定がもらえた。それだけだ。
　私は大きな挑戦をしたことがない。高校も偏差値的に余裕なところにしたし、大学は指定校推薦。大学時代は真面目に単位を取得していたけど、いわゆる就活で語れそうなボランティアや留学もしていない。
　そのせいで内定が取れなかったとは言わないけど、履歴書の自己PRが二行で終わる私は追い詰められていたのだ。

　でもその会社も辞めた。理由の詳細は省くけど、これ以上いたら役職を与えられてもっと忙しくなるのが目に見えていたからだ。
　辞めようと考えて最初に浮かんだことは海外旅行だった。大学の卒業旅行で行ったシンガポールは楽しかった。でもその場所は一緒に行く子の予算に合わせたもので、本当はヨーロッパに行きたかった。イタリア語を大学時代に勉強していたので、使いたくて仕方なかったのだ。

退職届を出し、有給休暇で立つ鳥後を濁しまくってイタリア旅行へ

　そこからの行動は自分でも驚くくらい早かった。保守的な私は無職の期間があることに耐えられないので、働きながら転職活動をした。無事に決まってから退職届を出して、余っていた有給を獲得した。
　入社までの3週間。そこから旅行会社に予約を入れて5日間のイタリア旅行が決定した。退職の話をした後の上司はそれはもう嫌そうな顔をしていたし、立つ鳥跡を濁しまくっていた自覚はあったが、それをしても悔いがないくらい嫌いな職場だったのだなと自覚したのはその時だ。
　元から旅行は一人で行く予定だった。急だったし、人と合わせようとして行けなくなるのは耐えがたい。ホテルと飛行機だけ決まっているイタリア旅行。社会的に対してはだいぶ保守的な私だが、それ以外だと楽観的なのでどうにかなると思ってた。
　でも念のため初日に向こうで暮らしている日本人のガイドを雇って、スリ対策をずっと予習しながらイタリアに行く日を今か今かと待ちわびていた。

雑誌で見た有名なカフェでの会計で突然訪れたピンチ

　そして夏、初めてイタリアに訪れた。飛行機が遅れて夜に現地に着くなどのトラブルはあったが、ガイドをお願いしていたおかげで初日は順調だった。ちなみにそれ以降を頼まなかった理由は、単純に私がケチで費用を削減したかったからだ。
　そして2日目（ちなみに移動に2日間くらい取られたのでイタリアで遊べる日数はそんなにない）、雑誌で見かけていた有名なカフェに訪れて、メレンゲケーキとカフェラテを頼んだところまではよかった。大学で勉強したイタリア語は読めるばかりで、話すスキルはかなり低かったけど、身振り手振りや適当な英語でどうにかなっていた。
　会計の時にカードを出して、暗証番号を求められる。日本でもイタリアに来た初日もサインでやり過ごしていた部分だ。なので今回もサインをお願いして、向こうも承諾したがレジから聞こえるエラー音。店員が他の店員も呼んでくれたのだが、詳細はわからないが結果的にサインではなく暗証番号を求められてしまった。
　まずい。とてもまずい。
　なぜかといえば理由は単純で、暗証番号を覚えていないからだ。現金はスリのことを懸念しすぎていたので、あまり換金しておらず手元にはもう1ユーロしかない。
　大使館や警察などのワードが頭に浮かぶ中、顔だけは平然として覚えのある数字四桁を入力してみる。
　エラー。
　ひとりで吐きそうになりながらも頭を振り絞って、これじゃなかったらもう捕まると思いながら数字を入力した。エラー音は鳴らず、決済が完了した。
　死ぬかと思った。誰にも言えない大冒険を終えて店を出る。でもそれも終わってしまえば気楽なもので、残りの日数は特にトラブルもなく旅行を楽しむことができた。

人生って意外に準備が疎かでもどうにかなる。これからは肩の力を抜いて

　海外に行って教訓的なものを身につけてくる人たちを今までは冷ややかな目で見ていたが、私もひとつだけ学んだことがある。
　人生って意外に、準備が疎かでもどうにかなるのだ。
　そこでスッと肩の力が抜けたのか、転職先では自分のペースを乱すことなく無理をしないで働いている。
　いつか気楽に海外旅行ができるようになったら、私はまた一人で海外に行くだろう。カードの暗証番号はもう忘れないけど、細かいことは考えないで気楽に。