桜が散った晴れた日曜日に父が家に来た。実家ではなく、今私がいる一人暮らしの住まいに、だ。特にリアクションをする訳でもお土産一つ持ってくる訳でもなく相変わらずの父は、入ってきて早々に台所の扉や冷蔵庫の中身など一通り覗いて、椅子にどかっと座っては「飯食いにいこうや」と言った。
懐かしいなこの感じ……。
そういえばこの前、古本屋さんで向田邦子さんの「父の詫び状」を偶然目にして、名作にもかかわらずお恥ずかしながら初めて読んだ。どこの「お父さん」も娘にとってこんな姿に映っているものかなと、クスッと笑ってしまうほど、うんうん分かるな~と共感の嵐だった。
なぜだろう。自分のこだわりを理不尽でも貫き通すところ。意味わからないところで厳しく、意外なところで甘やかしてくれるところ。自分の過去の自慢話を沢山してくるところ。どこの父親も大概同じなのだろうか。
10年ほどしか一緒に暮らしていない父。だからこそ鮮明な父との思い出
私の父は私が中学の頃から単身赴任で東京を離れていたものだから、かれこれ10年ほどしか一緒に暮らしていない。それなのに、いやそれだからなのか、父との思い出というものは不思議なことに結構鮮明に覚えている。
塾の送り迎えの車の中での会話とか小さい頃に弟と一緒によく遊びに連れていってくれていた公園とか、スーパーで好きなお菓子を買ってくれたこととか。
うん、私にとって父は居なくてはならない存在だった。
長女は父親に似るもの、とよく聞くけれど本当にそうで。私の家の中では父と私が大雑把代表格を争っていて、よく母と弟に小馬鹿にされてものだった。
でもだからこそ父は私と意外と波長が合うところがあって、言葉にし難い安心感があった気がする。ゆるくやっていこうぜ、みたいな心の隙間のようなものを作ってくれた。
私が受験勉強で必死な時にも隣の部屋で構わず、新婚さんいらっしゃいとか阪神戦とか観ては笑い声が聞こえてきていたし(さすがは関西人…)、部活でへこんでいた私に「続けることが大事なんとちゃうか」とポジティブ精神を投入してくれたり、就職を決めて母から反対をされそうだなと不安になりながらも、行き先を報告した時に「良い会社みたいだね」とL I N Eをくれたりだとか。
いっぱいいっぱいだった私に大胆で気の利かない父が作ってくれた余裕
緊張感や焦燥感でいっぱいの時に、これでもかと言うほど大胆で気の利かない父のその緩さが私の気持ちをうんと引き伸ばしてくれて、余裕を作ってくれていた気がするのだ。
見た目がカッコいい訳でも何かに秀でてできる訳でもない気がするが、一緒にいると安心感がある、そんな父の存在がきっと母の目にも写ったのかもしれない。
この間、うちに来た時にも結局近くの蕎麦屋に行って蕎麦やら濃いカツ丼をご馳走してくれて、その後「ほなまたな、家に帰って阪神戦みな」と言って帰っていったが、久しぶりにその「父らしさ」を感じて笑ってしまった。
その人らしさというものは、久しぶりにあった時にその雰囲気を感じることができる。「そうそう、この光景、これがあなただったね」と。
父らしさが幼い頃は厄介に思えたこともあったけれど、意外と心地の良いもので案外好きだよ。助けられたこともあったよ、居なくてはならない存在だったよ。
この先、父と過ごす時間なんてそうあまりないんじゃないかと思う。
面と向かって話すことなんぞできるのかには自信がないが、一緒にご飯を食べたりテレビを見たりする時間を敢えてつくってみる。言葉にはしなくても、一緒にいるその空間に思いが伝わると良いな。その度にきっと「この父らしさ、私もこういう所あるな」と父の姿を見て、その父に似た自分を少し受け入れられる気がしている。
娘にとっての父親ってやっぱり不思議で、やっぱり尊い。