何で私、お父さんと同じ仕事選んだんだっけ?
私が父からもらったもの。O型の血。ガタガタの歯並び。たらこ唇。洋ナシ体型。近視の目。せっかちで短気で気分屋な性格。半分くらいお金で解決しようと努力中だけど、どうにもならない悪いところも結構たくさん遺伝してしまった。
そんな父とは、「父親」以外の出会い方をしていなければ絶対に交わらない世界線で生きていた自信がある。つまり父が私の人生に登場する以上、「父親」であることが最高の在り方であったということ。父という人間がクラスメイトでも先輩でも後輩でも同僚でも、はたまた母親として存在していても、絶対に苦手だし、嫌いだった。
実際のところ、母と会うとほとんどが父の愚痴。
母には申し訳ないけれど、女として父に出会う時代に生まれてなくてホッとしている。
それでも私は、3年前の2019年、父と同じ業界に就職した。それがどういうことなのか。
社会人になって三年目、「今」を見つめ直すには結構ちょうどいいこの春の日に、少しだけ考えてみた。
圧倒的夜型の父について思いだせることはしょうもないながら結構ある
映像制作会社で今も現役で働いている(らしい)父は、忙しい上に圧倒的に夜型な生活を送っていたので、ある程度距離感があった。
私が学校で家を出るときは大体寝ていたし、もうそろそろ寝ようかなと思うと、父が帰って来る足音が遠くから聞こえてくるくらいのすれ違いよう。
食卓を家族全員で囲むことは土日の夜くらいで、その土日の日中は競馬かゴルフに勤しんでいたので、遊びに出かけることは少なかった。
それでも父について思い出せることは、しょうもないながらに結構ある。
なぜか牧場にはやたら連れてってくれたこと。(千葉県の成田ゆめ牧場は、私の聖地となっている。)
お母さんの機嫌を損ねて泣きながらお父さんの携帯に電話をかけたら、意外とちゃんと慰めてくれたこと。
教えてくれた将棋で全然勝たせてくれなかったこと。
夜遅く帰ってきて、起きていた私にジャンキーな夜食をたくさんお裾分けしてくれたこと。おかげで一時期は肥満児になったこと。
調子が良かった時だけゴルフコンペの順位表を見せてきたこと。
携帯を機種変更するたびに、ショップの人と喧嘩していたこと。
出張土産が赤福ばっかりだったこと。
誘拐された娘を助けて犯人をボコボコにするリーアム・ニーソンの映画を観て、「もし私がこうなったらどうする?」って聞いたら、「同じことする」ってあっさり返してきてびっくりしたこと。
いきなりステーキのデビュー戦を一緒に迎えたこと。
仕事の話ばっかりしていたら、池井戸潤の『下町ロケット』の如く盛り上がり過ぎて母親が拗ねたこと。
気になる映画があると、どちらからともなく誘って観に行ったこと。
父について柔いエピソードしか出てこないのがなかなかに悔しい
幸い還暦を超えた今もまだ父は元気で、まだまだ話すことも、一緒に出かけることもできる。
もちろん意味わからないことでたくさん怒られたし、たまに手も出してきたし、娘に甘すぎて弟になぜか私がブチ切れられたりもしたけれど、嫌な記憶は遠くで優しい寝息を立てている。
褒められた父親じゃないのに、思い返しても柔いエピソードしか出てこない。なかなかに悔しい。父娘の関係って、こういうことでいいのだろうか…
辛いとわかっているのに、父と同じ業界に進んだのは何故か。
答えは、まだ思い出を続けたかったから、なんだと思う。
じゃあ、もう少し頑張ってみるか。まだまだぼんやりしているけど、未来がちょっとだけ見えた気がした。
そういえば、気になる映画を見つけたので、近々、また行きましょう。