私には、とても信頼している男友達がいた。すごく話が合うわけでも、性格が似ているわけでもないが、お互いのことが何故か好きだった。口下手な私の話をよく聞いてくれ、忙しいはずなのにいつも誘いに応じてくれた。いつだったか、「どうでもいい人には常に忙しい人に見えていても構わないけど、大切な人からはいつでも誘っていい暇な人だと思われていたい」と言ってくれて、とても嬉しかったのを覚えている。付き合いはしないし、セックスもしないけど、淡い好意のもとに成り立っている関係だった。

「結婚したところで、関係は何も変わらない」と何度も言われた

 彼とは、お互いの私生活のことはあまり話さなかった。踏み込むのをどこかで恐れていたのだと思う。新型コロナウイルスが私たちの生活を変容させつつあったある日、彼に久々に会った。そして開口一番「結婚しました」と報告された。相手は職場の後輩で、結婚しても今まで通り別々に暮らし、顔を合わせるのは週1回。彼が来年から予定している、職場の制度を使った2年間のアメリカ留学にも同行はしないらしい。お互いの独立した生活を尊重しあう関係性は素敵だ。
だけど、それならどうして結婚する必要があったのだろう? そんな疑問を投げかけると、彼は淡々と答えた。
「これからの人生、一緒にいるのといないのとでは、いた方がいいなと思える相手だった。だったら、入籍しても悪くないなと思った」
 この言葉を聞いて、何故か泣きそうになってしまった。彼からは「結婚したところで、僕とあなたの関係は何も変わらない」と何度も言われた。でも、別れ際に「僕たち、結局何も起こらなかったね」とポツリと漏らした言葉が、変わらざるを得ない何かがあることを物語っているように思えた。私も、いつか誰かにとっての、「これからの人生、一緒にいた方がいいなと思える相手」になれるのだろうか――。

彼が自分をさらけ出すほど、私の興味は音をたてて失われていった

 それから数カ月、彼とは少しだけ疎遠になっていた。コロナ禍を理由に、気まずさを直視せずに済むのは好都合だった。そんな折、彼から「離婚しそうだ」とラインがきた。「お互いに自由に生きすぎると駄目なのかもしれない」と。
 寂しがっている既婚者にはあまり近づきたくないと思いながら、彼とお酒を飲みに行った。ワインが進み饒舌になった彼は、破綻の危機に瀕している家庭生活について、いつになく雄弁に語った。彼が自分をさらけ出すほど、私の興味は音をたてて失われていくのがわかった。「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」とは『アンナ・カレーニナ』(木村浩訳)の冒頭文だが、「何故この人はかけがえのない幸せを疎かにし、月並みな不幸は自分固有の特権かのようにひけらかすのだろうか」などと心の中で毒づきながら、虚ろな思いでグラスを傾け、酔いの勢いで凡庸な気休めが自分の口からついて出るに任せていた。少し大胆になった彼は、「僕はあなたのことをずっと魅力的だと思っていました」と言った。「離婚したら、僕たちの関係性はもしかしたら変わるかもしれない」。

私なりの本気のしるしだったのに、彼からの返信はなかった

 かけがえのない友情が、低次の恋愛に変容してしまったと、その瞬間に悟った。「色恋」の皮を被せながら、そんなリスクマネージメント優先の牽制を、彼にはしてほしくなかった。本気で好きなら、今すぐ踏み込んできてほしかった。「僕たちが齢をとったときに、もしお互い独身なら結婚しよう」とでも言わんばかりの、戯れのような関係はいらない。

 彼と別れて、その晩私は次のようなラインを送った。「人って知らず知らずのうちに自分に対しても嘘をついているものだから、自分自身に正直であるということはありのままの姿ではなく、努力して獲得していくものだと思う。自分の本音を探すことは実はとても難しいことだけれども、あなたの諦めずに考え続けようとする姿勢は信頼している」。
 私なりの、本気のしるしだった。そして彼にも、半端な気持ちではなく、私にきちんと踏み込んでくれることを求めた。でも、彼からは返信がなかった。
 始まる前に、何かが終わった。かけがえがないと思っていた友人は、もうどこにもいなかった。