「かわいそうに」
私が働いている店でよく聞くこの言葉は、誰に向けられて発されたものなのか想像がつくだろうか。
観光地のレンタル着物、お祭りの色とりどりの浴衣、リサイクルのアンティーク着物、「着物」を楽しむ若い人々に対して、呉服屋及びその顧客は「かわいそうに」と口を揃えて言っているのが日常である。あの人たちには、ペラペラの印刷の化繊の着物、丈の短すぎる季節外れの浴衣、趣味の悪い古びた着物にしか見えないのだ。

着物の”ルール”を知らない若い子たちは、かわいそうなのか

着物には、“ルール”がある。
この着物はこの季節に着なければならない。この着物はこの場所に着て行ってはならない。この年齢の人はこの着物を着なければならない。この着物にこの帯を合わせてはならない。それだけではなく、下着、小物、草履の段数、足袋のコハゼの数まで決まっている。
ルールを知っている私たちは正しい。ルールを知らない若い子たちはかわいそう。
「あんな着物を着せられて、かわいそう」

好きなものを好きなように着て、何が悪い。
「かわいそう」という言葉で優位に立とうとする“着物愛好者”に腹が立つ。お客さんや上司に同調して、貼り付けた笑顔で「そうですね」としか言えない自分にも腹が立つ。
着物。着る物。ただの服だ。着たいように着たらいい。自分をかわいく見せるために、自分の気分を上げるために、自分のための勝負服は、自分で選ぶ。
確かに、結婚式やお葬式などに着用する儀礼的な着物は、ルールに則る方が良い。その場では、自分のためというよりも、礼節を重んじるという側面が強いからだ。それは洋装でも同じはずである。

着物の歴史に学ぶと、生活や嗜好に合わせて変化する方が自然

ではなぜ「着物」だけ、日常の場面でも、ルールを押しつけられなければならないのだろうか。日本の伝統文化だから?いや、着物は古来から日常着であるはずだ。
元々は中国からまるまるそのまま輸入してきた礼服が、国風文化の開花とともに日本の風土に合わせて形を変えた小袖になり、政治の中心が貴族から武士に移ると、より動きやすく簡略化されてきた。実は、現在の、おはしょりがあって、8寸の帯を、帯揚げと帯締めを使ってお太鼓結びにする“正式な”着物の歴史は浅い。
着物の歴史に学ぶと、むしろその当時の生活や嗜好に合わせて変化する方が自然である。現在、形を変えずに保存しようとしているものは、1000年以上前からその形を変え続けてきたものの、たった200年足らず前の一時的な状態でしかないのだ。

着物を守るためのルールが、着物を衰退に導き、危機を迎えている

今、着物業界は危機を迎えている。もちろん、若者の着物離れに原因がある。
あらゆる分野において、文化の中心にいるのは、若者である。私たちは、着物を伝統文化として腫れ物のように扱うか、多様性を受け入れファッションの一種として進化を認めるか、選択の岐路に立たされている。
伝統文化は大切である。しかし、着物は元来ファッションだ。着る人の数だけ個性がある。好みがある。その中の1つだけが正しく、その他は排除されるのはおかしい。
ルールなんていらない。現代的な柄の着物を着てもいい。動きやすいように浴衣を着てもいい。古いものを大事に、自分らしく着てもいい。着物を大切に思うならこそ、今の世の中に必要とされる形に変えてあげるべきだ。
ルールは、誰のためにあるのか。着物を守るためのルールが、着物を衰退に導いている。それでは着物が「かわいそう」だ。
着る人の数だけ、着こなしがある。着こなしを制限すれば、減るのは着る人の方だ。
ルールではなく、自分の感性に従って着物を着よう。ルールを破れたら、着物はもっと楽しい。