あの夏の夜は、効きの悪いエアコンが主張して、心まで蒸し暑かった気がする。
せっかく下ろしたスウェットに、汗をかいてしまいそうだったから、自室から出て、一階に降りた。
冷蔵庫から新品のミネラルウォーターを取り出し、扉を開けたままごくりと飲んだ。
「んああ……冷たくて気持ちいい」
ふと横目にカレンダーを見た。はりきったママが自分のダンスの発表会の日を赤ペンで二重丸している。可愛くて素敵だ。
いくつになっても好きなことを好きだと言える人が、一番輝いていると思う。
絶賛浪人生のわたし。わたしの好きなことは、なんだろうか
わたしの好きなことは、なんだろうか。
ちょっと鬱になりそうで、リビングのソファに寝っ転がってスマホを開き、いつもの姫垢に足を運んだ。
『はぁ……寝れない』
そう呟くと深夜でも一瞬でリプライが来る。姫に求婚者はつきものとはこのことかしら。
『僕とDMする?』
『なんかあったの?』
『大丈夫?』
通称姫垢、中身は勉強垢、19才のわたしは絶賛浪人生であり「大学に入るための勉強をしている」ことになっていた。
男子の方が高学歴思考が高く、浪人する人数も多いことを根拠に、勉強垢の男女比を見ても圧倒的に男子が多かった。
女であるわたしが自己肯定感と承認欲求を満たすには完璧なステージだった。
ネットで仲良くなった男の子とは、何人か直接会っていた。もちろん勘というわたしの見る目で、いろいろ大丈夫そうな男の子を見抜き、ありがたいことに痛い目には一度も合わずに済んだ。今思えばこれは才能かもしれない。
「物書きになれば?」呟いていた姫垢での文章が良かったらしい
あの夏の夜の、次の日は、一人の男の子と会っていた。
駅で待ち合わせをして二人でカフェに行った。冷静になれば浪人生は勉強をするべきだが、19才でこれからの人生の前に、一年モラトリアムを与えられたと思うと、遊んだっていいじゃないかと思ってしまった。
「ももちゃん可愛いね」
そういって頭を撫でてくれる、まさかの二浪のイケメン男子と相合傘をして歩くのは最高だった。すれ違う女の子たちから向けられる眼差しから得る優越感で、足が浮きそうになった。
超名門大医学部を目指している彼に、ももちゃんは何になりたいのかと聞かれたとき答えられなかった。その時にこう言われた。
「ももちゃん、物書きになれば?」
予想外の言葉で驚いた。理由を聞くと、姫垢だった。暇な時に呟いていた色いろんな種類の感情を帯びた文章たちが、彼曰く、なんだかとても良かったらしい。
わたしの今は、あの夏にある。わたしは好きなことを好きだと言える
その言葉、真に受けてしまおう。
びっくりするくらい簡単なきっかけだったが、わたしはまんざらでもなかったから、その勢いで大学も文学系を選んだ。元々小説は結構読んできたし、文章を書くのも好きだった。
そして驚くことに今、大学で小説を書いている。何回か公募でも採択され、少し物書きらしさが出てきているのではと思う。
あの夏の、自分の行動、彼との出会いもそうだが、全部自分で選んでここに来た。
そう思うと、人生って面白いと思った。今わたしは好きなことを好きだと言える。
わたしの今は、あの夏にある。
夏は自分が変われる季節だ。