私にとって大切なあの夏の挑戦。ふとついこの間だったかのようにも思えるが、思い返せばもう9年が経とうとしている。
私は小さい頃からの夢があった。心の底から叶えたい夢。小学校への通学も習い事や部活も、全ては夢に繋がっていると信じ、目の前のことに常に全力を注いでいた。だが、私の夢には年齢制限があった。

小さい頃からの夢を失った私が出会った、ダブルダッチというスポーツ

私の夢は、宝塚歌劇団の男役のトップスターになること。倍率が高くて有名な宝塚音楽学校は、受験をしていても受からなかっただろうが、高校までは卒業してほしいという親の意向により挑戦すらできなかった。私の夢は、高校2年生で儚くも散ってしまった。
もう夢は叶わない、という現実を受け止めるのは苦しかった。夢を失った高校生は何を目標に生きていけば良いのか、途方に暮れた。
そんな中、ミュージカル映画と出会い、新たな目標ができたが、芸術大学への進学は反対された。大学へは勉強するために行きなさい、と。そして、大学進学のために勉強し、それと同時に大学生である4年間だけが、自由に挑戦できる期間だ、ということも覚悟した。
無事に大学生になり、この4年間に学業・研究室・友人と遊ぶ・アルバイト以外に何かを成し遂げると決めた。新歓でのサークルや部活の勧誘を参考に、国際ボランティアや舞台への挑戦に決めようとしたとき、ダブルダッチというスポーツに出会った。
なんとなくではあったが、これだという直感が働いた。反対されると分かっていたので、母には言わずにサークルに入った。それからしばらく紆余曲折あったものの、後に全国大会で優勝を目指すこととなる。直感は間違っていなかった。

全国大会優勝という目標を掲げ、人一倍強い想いを胸に練習に励む日々

学生にとって大きな大会が毎年夏に開催される。各地区予選があり、上位チームが全国大会に出場でき、さらに上位3チームが、ニューヨークのアポロシアターで開催される世界大会に出場できる。
私たちのチームは全国大会で優勝するという目標を掲げ、日々練習に励んだ。私たちが挑戦できる最後のチャンスは大学3年生の夏の大会である。結果を残せなければ、ここで試合終了。
とはいえ、私は全国大会優勝を目指すほど、周りより上手いわけでもかっこいいわけでもなかった。ただ、本気で挑戦したいという想いは人一倍強かった。
片道2時間の通学中は、家で(今は懐かしいiPod Classicに)ダウンロードしたダンスやダブルダッチの動画をひたすら見て、授業の合間の時間や授業後、休日に練習する。
帰宅後21時から3時間でも入れる日はアルバイトに行く。
練習場所がなく、夏でも冬でも外で練習することも多い。足が痛くて大会終わりに病院に行くと、左足が疲労骨折していて、すでに治りかけだと言われたこともあった。
自分の得意だと思っていた技にミスが目立ち演技からはずすことになった時は、自分はチームの足を引っ張る役立たずだと毎日責め、悔し涙を流したことも。やめた方がチームのためになるならやめよう、と真剣に考えたこともあった。

さらに母からは余裕がない娘の体調や学業との両立を心配に思う気持ちから、毎日辞めたら?と声をかけられた。ただ、辞めたいと思ったことは一度もなかった。
今思えば、小学生の私が大きな夢を持つと同時に心に決めた「どんなに辛くても夢や目標を諦めない、必ずやり通す。」という約束を果たしたかったからなのかもしれない。
一度失ってしまった夢。あの夏、もう一度叶えたい夢を持つことができた。もう途中で諦めたくない。努力ができることはすべてする。それで負けたなら悔いはない。ただ、挑戦をせずに辞めることだけはもうしたくなかった。

挑戦は結果となり、失ったはずの小さい頃からの夢を叶えてくれた

そして、大学3年生の夏。挑戦はとんでもなく大きな結果として返ってきた。
関西大会で優勝、全国大会で準優勝、世界大会で優勝という結果。そして何より、ダブルダッチを通して、観客を楽しませること、仲間と共に楽しめたこと、誰かの夢や目標になれたかは確かではないけれど、小さくても夢を与えられる存在に一瞬でもなれたことが、小学生からの私の夢を叶えてくれた。

心折れそうなときに私がやりたい事をやることに、全力で応援してくれた父。
言葉は嫌味に聞こえていたが毎日を支えてくれ、私を強くしてくれた母。
毎回誘いを断る私を見守り、応援してくれた友人たち。
辛い時期を共にしたチームやサークルの仲間。
ここには書ききれない大切な人たちの存在により、私は辞めずに強い想いと共にあの夏、挑戦することができた。そして、あの夏の挑戦は私の人生でかけがえのない宝物となった。
今もなお、色濃く残る輝かしい宝物。
だから、忘れないでほしい。一歩踏み出す勇気と仲間を信じることで、あなたのその挑戦が大きな大きな人生の宝物になるかもしれないということを。