ダーディ、私はあなたが大嫌いです。
ダーディとは、もう私の高校の卒業式を最後に約4年、会っていない。年に1、2回電話をするくらい。私からかけることは、絶対にない。ダーディの電話は、私の誕生日と、お正月にかかってくることが多い。今年の誕生日はなかったけど。
「元気?何で電話しない?ダーディが心配じゃないの?たまにはあなたから電話してよ」と、毎回このセリフを言う。正直、ダーディはまだ50代(正確な年齢が分からない)だから、そこまで命の面では心配ではないし、そもそも話すことがないから、自分から電話をかけようとは思えない。あんなに大好きだったのに。不思議。
私の父は、毎日「家族のため」に頑張って働いてくれていた
ダーディは、外国の人。20年以上前に、日本に来た。ダーディは料理が上手で、日本に来て、イタリアンレストランで働いた。ダーディの作るピザは絶品だった。ダーディは、日本語はペラペラだけど、書けないし、読めない。少しは勉強したみたいだけど、挫折。母が代わりに読んであげていた。
私はよく「お父さんの国の言葉話せるの?」と聞かれるけど、話せないし、読めない。英語もできない。少し恥ずかしいけど、話のネタになるので、まあよし。
私が小学2年生になる頃、私たち家族は田舎へ引っ越した。ダーディは料理人を辞めて、車の部品を作る工場で働き出した。
夜勤だったので、私が学校に行く時間に、油くさい作業着で疲れた顔をして帰ってきて、外の光を完全に遮断した真っ暗な部屋でいびきをかいて寝ていた。毎日、毎日家族のために頑張って働いてくれた。
私が4歳の頃両親は離婚したが、16歳になるまで家族をしてくれた
家族は家族といっても、うちは不思議な家族だった。ダーディと母は、私が4歳の頃、既に離婚していてそれでも、一緒に暮らして家族をしてくれた。私は、今でも覚えてる。夜、リビングで母に「ママとダーディ、どっちと暮らす?」と聞かれたこと。
私は子役さながら、泣き落としに入った。「いやだ!どっちかなんていやだ!3人で暮らしたい!」と。2人はバツの悪そうな顔をした。そして結局、私が16歳になるまで不思議な家族をしてくれた。
その年、ダーディは母国の女性と再婚し、子供に恵まれ、新たな人生を歩みだした。この時期から、私とダーディは疎遠になり、たまに電話をするだけの仲になっていった。
それでも、私の高校の卒業式に来てくれた。 眠そうな顔で「おめでとう」と言ってくれた。すごく、嬉しかった。
父からの電話は、家の工事の保証人になって欲しいという内容だった
上京して、物理的に距離が離れてしまってからは、心の距離も次第に離れていってしまった。今年2月、ひさびさに電話がかかってきた。家の工事の連帯保証人になって欲しいという内容だった。
私は、一度は承諾したものの、なんだか大変なことなんじゃないかと思い、母に相談した。母は、「そんなの、断りなさい!保証人っていうのは、あなたが払うことになるのよ?」と声を荒げた。そうか、そんなに大変なことなんだと、そこでやっと気付き、ダーディに電話をして、やっぱりだめと断ると態度が一変。しまいには、「俺たちは、縁が薄いからな」とまで言われ、悲しくてたまらなかった。
今までの時間は、何だったんだ。家族って、何だったんだ。なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ。怒りと、悲しみでいっぱいになった。全部、その一言で否定されたみたいで悔しかった。楽しかった記憶が一気によみがえってきて、吐くかと思った。もう、自分を傷つけないようにこれ以上関わるのを止めよう。そう決めた。
ダーディとの絆は幻だった。でも、私を沢山愛してくれて、遊んでくれて、家族の為に一生懸命働いてくれたダーディを幻だったとは思えない。ダーディのこと大嫌いだけど、もう二度と会いたくないけど、感謝の気持ちは幻なんかじゃない。確かに、縁は薄いかもしれない。だけど、ないわけじゃないから。ありがとう、ダーディ。