「出勤するときの朝食は、グラノーラです」と言ったら、「やっぱりお洒落だね」と言われた。

この言葉の主が思い浮かべた食卓は、どんなだろうか。ターコイズブルーのボウル、添えられたベリーとヨーグルト、木のスプーン、ランチョンマット、紅茶の匂いが漂い、鳥の鳴き声がBGM、早起きした日の朝の光が、まぶしい。そんな感じかもしれない。

「お洒落だね」と言った相手は、どんな朝食を想像していたのだろう?

わたしが食べる朝食のグラノーラは、そうじゃない。朝食にグラノーラを食べる理由は、“袋から出すだけでオッケー”だから。大袋のグラノーラを、プラスチック製のお皿(スヌーピーの絵が描いてあって、はげかけている)にざらざらっと入れ、牛乳をかけ、使い古した銀のスプーンでかきこみ、わしわしと無心で噛みしめて、家を飛び出す。ランチョンマットなんて、紅茶なんて、まぶしい朝の光なんて……。

「お洒落だね」と言われたとき、その言葉には「やっぱり」がついていた。「やっぱりお洒落だね」。それは相手が、わたしの朝の食卓に、スヌーピーのはげかけたお皿ではなく、ターコイズブルーのボウルを想像していたからなのだろうと思う。その理由とは。

わたしは10代の頃から、趣味で短い小説のようなものを書き始め、現在はショートストーリーやエッセイなどを書いては、自身で作品発表をしたり、時々メディアに寄稿させていただいたりしている。

作品の中で、わたしはよく食べ物を書く。生活の中にあるささやかなものをすくい上げることに魅力を感じるし、“食べること”に生命の営み、突き詰めれば“生きたり、死んだりすること”について考え、表現したいから。

わたしの身近な生活ではなく、「憧れ」を背伸びして書いている

今年のはじめ、“お正月にまつわる食べ物エッセイ”を7つ書いた。食べ物のイラストも添えて、毎日ひとつずつSNSなどに投稿した。一番人気があった作品は『あんバタートースト』だった。逆に一番反応の少なかったものは、『みかん』だった。

文章の内容も多少は影響を及ぼしている可能性はあるものの、理由はおそらく、映えるからなんじゃないかと思う。あんバタートーストの方が、みかんよりも。カフェのモーニングで頼んだあんバタートーストをInstagramに投稿する人は多いだろうけれど、家の散らかったこたつの上のみかんの山は、どうだろう。

作品に食べ物や料理を登場させると、読んでくれた人たちは、作者の現実の食卓にも同じ風景を思い浮かべることもあるようで、実際、「これってよく食べるんですか?キッシュや、ガレットなんかを?」と聞かれることもある。わたしはいつも、「名前を知ってるくらいですョ」と少し恥ずかしくなりつつ答える。

わたしの身近な生活なのではなく、わたし自身の“憧れ”を背伸びして書いているだけなのだ。文章の中では、なんだって自由だから。わたしがグラノーラを大慌てで食べているのなら、文章の中の主人公に、のんびり食べてもらえば良い。

SNSに投稿される写真には、写真から見切れている部分の生活もある

「やっぱりお洒落だね」の言葉には、わたしが書いた『あんバタートースト』のイメージが含まれていたのだろう。だけど、連綿とつづくわたしの毎日の中には、『みかん』の方が圧倒的に多く登場する。

SNSに投稿される、フィルター加工された生活は、きっとたった数センチの四角の中にある。カメラから見切れている、それ以外の部分だって、生活だ。「やっぱりお洒落だね」と言われて、わたしは答えた。「グラノーラが一番早く食べられるからですよ。見せられたもんじゃないです、犬の餌みたいだなあって思うくらいで……」。

わたしは自身の作品を通して、ちょっと背伸びした『あんバタートースト』のわたしも、等身大の『みかん』のわたしも見せていきたい。

全ての人にだってきっと、大急ぎの朝のグラノーラと、休日のグラノーラがあるはず。どっちもおいしくて、いとおしい。どっちも等しく、わたしたちのカラダをつくってくれるものなのだから。

タイムラインに“お洒落な朝食”ばかりが流れてきて、自身の散らかった部屋を見回し、ため息が出るようなときには、どうか思い出して欲しい。わたしのだらしなく、全然映えない朝食を。それと同じような朝が、今日もこの町にはたくさんあることを。そして、あなたのそんな精一杯の朝が、今日という一日をちゃんとつくっていってくれるってことを。