座右の銘は『愚直』。バカ正直だ、とか正直すぎて融通が利かない、というネガティブなイメージがあるけれど、私が『愚直』を心に留めているのには理由がある。
それは中学2年生のときのこと。部活の顧問でもあった担任の先生に裏切られた、と思ったことがきっかけだ。

課外実習を終えたバスの中は、みんな遠足帰り気分で賑やかだった。
「ねえねえ、これ食べる?」と後ろの席から肩をたたかれて振り返れば、差し出された手に乗っていたのは、個装されていない2つのグミ。私は一瞬受け取るのを迷った。
なぜなら、この実習が始まる前に「バス内では飲食禁止」と言われていたからだ。でも、後ろの席の子たちはみんな何かを口に入れているようで「言わなきゃバレないよ」と小声で笑っている。まあ、グミ2つぽっちだし。みんな食べてるし。「ありがと!」そう言って受け取り、すぐ口に入れた。だって個装されていないから、ポッケに入れておくわけにもいかないからね。
そうして私と友達はクスクス笑いあった。

「食べた人は正直に手を挙げなさい」先生の声に恐る恐る手を挙げた

そんなことを忘れていた数日後。HRで先生はこう切り出した。
「先日の実習の帰り、バス内で飲食した人がいたと話がでました。食べた人は正直に手を挙げなさい」
怒り気味な先生の顔にドキッとした。実習後、ふたを開ければ、学年の大半の生徒は飲食をしており、なんなら他のクラスではゴミをきちんと持ち帰ることを条件に先生が承認していた。にも関わらず、うちのクラスだけなんだこの重罪感。
もちろん誰も手を挙げず、先生はため息をついてみんな顔を伏せるようにと言った。再度同じ質問をされ、ドキドキしていると、何人かが手を挙げたような衣擦れの音がした、気がした。
そうだよね、ウソはよくないよね、と恐る恐る私も挙手をして数秒後。顔を上げると先生に睨まれていた。「いま手を挙げた人は放課後残りなさい」の言葉に、教室内は少しザワザワしていたけど、怒られることが確定している私は、泣きそうな気持ちで放課後まで過ごした。

なんで私だけ?先生のウソつき。正直に言ったらバカを見た

「部活には参加していいけど、次の大会には出しません」
生徒指導室で叱られた翌日、反省文を提出しに行ったときに言われた言葉に愕然とした。
こちらの言い分は聞き入れてもらえなかったけれど「正直に言ったから、部活には影響しないようにします」とつい昨日言っていたのに。
あっさりと手のひらを返されて、昨日と言っていることが違うと訴えても「決まりを破ったあなたが悪い」の一点張りで、決定事項が変わることはなかった。「裏切られた」「ウソをつかれた」が頭の中でグルグルしたのを覚えている。たったグミ2つぽっちの話だ。

帰宅後、夕食の席で、この腹立たしいやら悲しいやら悔しいやらの気持ちを家族に話すと、隣で聞いていたお姉ちゃんが「バカだねえ」と笑った。
「そういうのはいわないの。みんなウソついてるんでしょ?現実はね、正直者がバカを見るようにできてるんだよ」
もう全くその通りだと思った。事実、挙手しなかった人なんてたくさんいるし、隣のクラスなんて公認でお菓子食べてるし、なんなら反省文だけで終わった子もいるのに。なんで私だけ、出場が決まっていた大会を辞退しなくちゃならないんだ。

「正直なお前を見てくれる人はいる」父との思い出に泥を塗りたくない

お姉ちゃんの言葉にべそべそしていると、たまたま家にいたお父さんが「ちゃんと正直に言って偉いよ」と言った。
「確かに、悲しいかな、正直者はバカを見ることが多い世の中だけど、だから正直者でいなくてもいい理由にはならないよね。正直に生きているお前のことを、誰かは絶対に見てくれているし、ちゃんと評価をしてくれる」
まあ、本来その評価をする側の先生が話も聞かず、そういう判断を下すのは、ちょっと先生、若いかなって感じだけど、と苦笑しながら締めた。そんな父の座右の銘が「愚直」だ。
結局、試合には出してもらえず、煮え切らない思いもなくはなかったけど、とてもいい経験をした、というのは不思議と当時の自分も理解はしていた。

あれから10数年経ち、私も大人になった。
社会に出れば、何度も「正直者はバカを見る」場面に立ち会ってきたし、本音と建て前は使いこなせないとだめだし、理不尽なこともたくさんあった。それでも、私は仕事に真摯に真面目に取り組むことを心掛けている。
誰かにいつか評価されると信じているのもあるけれど、あの日父に励ましてもらった思い出に泥を塗りたくないという思いが強くある。同時に、私も頑張る誰かに気づいて、ちゃんと見ていられる人になりたい。
……最後に。良い話のようにまとめたけれど、逆を言えば、あの時裏切られたことを私は執念深く覚えていて、今でも納得できていなくて、きっとこの先も忘れられないっていう話ですからね、先生。