今、毎日が休日だ。ほぼ毎日働く生活から一転して毎日が休日になった。毎日が休日生活に入って気付けば半年が過ぎた。
最初の2ヶ月は時間の余白はたっぷりあるはずなのに、心の余白は全然なかった。ぽっかりと空いた時間で読書や料理に励んでいた。
読書はいつだって夢中になれることだけど、だんだんタスク化していった。2品を並行して料理することにこだわっていた。今思えば、自分がまともだと証明するために必死だった。
自分がまともだと証明するために働いていたときと、根っこの部分は変わらない、そう気付くのはしばらく後になってからだった。
苦い出来事と休息を繰り返し、「毎日が休日生活」への気持ちに変化
気持ちが一番落ち込んでいたときに、うっかり開いたInstagramで友達の出産報告を見つけた。おめでたい出来事なのに、げんなりした。生まれたてほやほやの命と弾けかけたしゃぼん玉のようなわたしのコントラストは強烈だった。
心から祝福できず、わたしの心は一層しおれた。心の安寧を保つためにミュートボタンを押したことはここだけの秘密にしておいて欲しい。
そういえば「ミノハラちゃんはコミュニケーション能力が低いから……」という上司Aさんの台詞が夢に出てきたこともあった。
夢の中ではAさん本人ではなく、なぜか優しくて尊敬できるBさんの口からその台詞が出てきて、やりきれない気持ちになった。でも、Aさん本人が出演してくれたら、それはそれで辛い気持ちになっただろう。
苦い出来事と十分な休息を繰り返し、「毎日が休日生活」を心から人生のボーナスタイムだと思えるようになった。とは言え、この時間はモラトリアムで永遠に続くわけじゃない。しゃぼん玉はいつか弾けるし、夢はいつか醒めるのだ。
長期休みにつきものの大量の宿題。大人の宿題は何だろう
「毎日が休日生活」に思いを巡らせているうちに、ふと長期休みが頭に浮かんできた。
特に夏休みと言えば大量の宿題がつきものだ。中学生時代は溜まりに溜まった宿題を8月31日に本気を出して終わらせていた。高校の先生たちは気が狂っているとしか思えない量の宿題を押し付けてきた。
だから、やりたくない宿題はやらないことにした。基準は受験勉強に役立ちそうかどうか。結局、やるべきかどうかが基準なのだ。
大人の長期休みの宿題は何だろう。たいそうな宿題に思えるが、シンプルに考えることにした。そして、どんなに小さいことでも自分で選ぶと決めた。
Aさんの元で働いているときはランチタイムのメニューすら自分で選んでいなかった。良かれと思って注文してくれたはずの蟹クリームパスタなのに、わたしの目には勝手に頼まれた一品として映った。その証拠にあんまり味を覚えていない。
今のわたしは自由気ままにランチのメニューを選んでいる。
ある日は回転寿司でランチするつもりだったけれど、偶然見かけたお店のボロネーゼに心を奪われた。少なめで注文したボロネーゼは美味しかったけれど、全然お腹が満たされなくて、結局は回転寿司にも行ったことはここだけの秘密にしておいて欲しい。シンプルに粗塩で食べた水いかの握りは心もお腹も満たしてくれた。
しゃぼん玉を吹き続けるように小さい選択を繰り返していきたい
しゃぼん玉はいつか弾けるし、夢はいつか醒める。たとえそうだとしても、しゃぼん玉を吹き続けるように小さい選択を繰り返していきたい。
わたしは知っている、過去の小さい出来事がわたしを作り上げたように、今の小さい選択がわたしを作っていくことを。願わくは小さい選択の先にあるものが心地よい夢であって欲しい。
先日、友人からLINEで出産報告が届いた。母子ともに元気なことが何よりも喜ばしい。そして、素直に祝福できる自分がいることが嬉しい。
来週は友人宅を訪ねる予定だ。5kg近くに成長した赤ちゃんを抱っこできるだけの腕力が自分にあるだろうか。願わくは1週間でゴリラ並みの腕力を手に入れたいが、さすがに叶いそうもない。
出産祝いを携えて、ありのままのわたしで会いに行くつもりだ。