最近ふと思う、私って子どもを産まない人生を生きてるんだろうな。

ゲームに例えるとすれば、初期設定で職業を選ぶように、私は「子どもの数」を「0人」と設定して人生をスタートさせたようだ。

生理を迎えるたび感じるすこしの寂しさ。卵子たちも、私と同じ28歳

月に一度くる女の子の日。不順でもなければ、痛みがひどいわけでもない。ただただ当たり前のようにその日が来て、当たり前のようにその日が終わる。

今までなにも感じなかったけど、最近は、28という歳のせいか、生理の日を迎えるたび、すこしだけ寂しさを感じるようになった。

ご存知の通り、卵巣にある卵子は、男性の精子のように新たに作られることはない。生まれた瞬間からただひたすら減っていくだけなのである。残った卵子は肉体と同じだけの時が刻まれ、顔に法令線やシミができるように、衰えていく。

いま私の卵巣に生きる卵子たちも、私と同じ28歳だ。
砂時計のようにサラサラと消えていき、上に残った砂は少しづつサビていく、そんな儚い卵子たちの生き様が想像できて愛おしい。

私は、幸か不幸か子どもを産むことや育てることにあまり興味がない。自分のことで精一杯だし、なにより自信がない。

夕方のニュース番組で、その日生まれた赤ちゃんを紹介するコーナーがある。生まれたてほやほやの赤ちゃんの皮膚はほんのりピンクで、温かみを感じさせる。同世代の女性がそんな子どもを抱きかかえ『かけがえのない存在です』と涙目でコメントをする。

なんとも尊い映像なんだろうけど、いつも自分に対する恥ずかしさなのか情けなさなのか、よくわからない感情が込み上げてきて、そのままそれに焦って、チャンネルを変えてしまう。

その後は何もなかったかのように振る舞うが、本当は、心にあのよくわからない感情が少し残っていることがわかって、いつも戸惑っている。

SNSで賑わう友人の子ども。私は子どもを欲しいと思ったことがない

強がっているわけではなく、子どもを欲しいと思ったことが本当にないから、虚しい。幸い、卵子の寿命に焦って情緒が不安定になることがないので、その点においては本当に良かったと思う。

SNSの中は、友人たちの子どもの笑顔で賑わっている。シャボン玉と子ども、お花と子ども、動物と子ども、どれも透き通るように美しい写真ばかり。

もし自分が出産や子育てを人生の通過点に置いて生きていれば、汚れない美しすぎる写真を横目に、今頃鬱々とした日々を送っていたに違いない。そんな自分が安易に想像できてまたまた虚しくなる。

結婚して子供を産むような将来。これからも想像できなくていい

本当だったら結婚するんだろうし、順調にいけば子どもを産む。当たり前のようでいちばん難しいこんな将来、今まで想像してこなかったし、これからも想像できなくていい。

毎月、毎月、これまでの人生に終わりを告げ、「いってきます」と旅立つ私の卵子たち。「出ていきたくない」と生理が来ない月があるわけでもなし、卵子たちは潔く毎月旅立つ。
きっと、素敵な精子との出会いに期待をして旅立つんだろう。そんなことを想像すると子孫を残すという欲がない自分なんかの卵巣に……と申し訳なさを感じる。

単純に、私のカラダの一部との別れはさみしい。
少しくらい渋って、私のカラダにとどまってくれてもいいのに。

あと何個残ってるんだろ。
いつ空っぽになっちゃうんだろ。

そんなことをふんわり想いながら、今月も私はナプキンについた鮮やかな血をみて、役目を終えた卵子にさよならを告げる。