“期待を裏切る”、という言葉がある。
 裏切りは裏切りでも、自ら望んで行った裏切りと望まず行われた裏切りがある。
『裏切り』の記憶、私の場合、後者を考えてしまう。

一方、期待はするもの、されるものがある。私は、どちらの立場も経験したことがある。
 期待をされることは、嬉しくない訳ではないが苦しい。そして時には裏切ってしまう。

親の残念な顔を見たくない。できる限りの努力はした

「マナマナならできると思ったのに」
 この言葉は非常に痛い。
 小学生の頃、私は親の思い通りの子どもになろうと頑張っていた覚えがある。勉強も運動も。習い事のピアノも。
 小学校のテストは満点ではないと嫌だった。親の残念な顔を見たくないからだ。そして怒られたくなかった。
 運動は正直苦手だった。だからその中でも得意なことでカバーした。バスケットボールだったら、シュートを。ドッチボールだったらボールに当たらず逃げることを。

 周囲の友達は、ほぼ毎日遊んでいたが、私はあまり遊ばなかった。家に帰れば、勉強と当時の習い事のピアノ。ピアノは1日3時間弾いていた。学校行く前も弾いていた。良い成績をおさめることはできなかったが、コンクールに出ることもあった。

 何事も、変な期待をかけられ、その通りにいかなければ、残念がられる。できる限りの努力はしたつもりだ。
 逆に期待通りにできれば、その次も期待される。
 もし期待通りにできなければ、次の機会には、「どうせできないでしょ?」と思われる。口にもされる。
 どう転んでも私のプレッシャーになった。
 喜んだ顔は見たいが、残念な顔、期待通りに行かなかったことへの苛立ちは見たくなかった。
 それがストレスになり、学生時代のテスト期間は殆ど神経性胃腸炎になっていた。
 いつも薬で紛らわせ、テストを受けていた。
 親からだけではない、時には先生や友達からの圧もあった。テストでは、「マナマナなら、これくらいの点数とれるだろう」と言われていた。

仕事の場合は、常に責任が共にある。期待を裏切ったらと思うと怖い

 それは大人になって仕事をはじめてからもそうだ。お客様の要望に応える。期待に応えられる様に働く。
 新入社員で入社まもない頃、お客様から、「できると思ったのに」と言われたことがある。
 そこの社員なのだからできて当然。お客様からみた私たちはそこで働いている社員であって新入社員など関係ない。
 私はお客様の期待を裏切ってしまった。

 正社員だった会社を辞めてからも、アルバイト先で期待されることはある。「マナマナならこれぐらい時間内にできるだろう」と。
 できたらできたで「ありがとう」と言われる。その言葉は嬉しい。そして私に擦り傷を負わせる。またノルマが少しずつ増えていく。

 仕事の場合、期待を裏切れば自分自身だけの問題ではないことが多い。一緒に働いているスタッフ、関わっている会社、はたまたお客様まで巻き込んでしまい、最悪大事だ。
 その様な責任と共に働いている。期待を裏切ったらと思うと怖い。
 アルバイトであってもそこにいる以上、お金をもらっている以上責任を持って仕事をしないといけない。
 それは働いている以上永遠に付き纏う。
 逃げ出したくなる時は勿論あるが、逃げ出せない。

“期待を裏切る”。それは相手がいなければ発生しない

 今はプレッシャーで神経性胃腸炎になることはなくなった。社会人になってからその系統の薬は飲んでいない。
 今後も飲まない様な生活を送れたら、と思う。

 しかし、社会で生きている以上、今の私は責任を持たないといけない。仕事に於いて、期待を裏切ってはいけない。
「期待されないことも悲しいことだよ」と他人は言う。その気持ちもわかる。
「期待されているだけマシでしょ?」とも言われる。その通りかもしれない。時には期待されることに対する妬みも他人から生まれてしまう。
 更に重要だと思うことがある。期待を裏切ってもいけないかもしれないが、期待に押し潰されてもいけないということだ。押し潰されたら元の子もない。

 “期待を裏切る”。それは相手がいなければ発生しない。仕事や学校など、この話であげた能力の話題だけでなく、友情や恋愛といった人間関係でも発生する。
 社会で生きていく私たちは、人とのコミュニケーション内で、どう自分が上手く生きていくか考えて生きていかないといけない。
 そしてそれは、私にとって永遠の課題である。