「役立たず!こんな子私の子じゃない!」と頬を引っ叩かれた。あの時私は痛くて泣いたのではない。絶望して泣いたのだ。
10歳になった時、私は生きる意味がわからなくなった。私は誰の子でもない。役にも立たない。必要ない。邪魔な人間だ。フラフラと屋上に行き、屋上のベランダに手をかけた。でも足をかける勇気がなかった。自分が惨めだった。情けなかった。生きる意味がわからなかった。死んだ方が楽だと思った。でも、死ぬこともできなかった。私の10歳の始まりはどん底だった。

「役立たず!こんな子私の子じゃない!」母にかけられた呪いの言葉

ことの始まりは9歳の時に出場したピアノコンクールだった。地区予選のコンクールで1位を取ったものの、本選で1曲目から失敗。焦りから2曲目もうまく演奏することができず、何の賞にも入らなかった。失敗した動揺と本番うまくいかなかった悔しさから、「失敗しちゃった…」と口にした。その言葉を聞いた母は私を叩いた。動揺して、この時何を言われたかは覚えていない。頭の中が真っ白で、ただただ泣いていたことだけが記憶に残っている。

悲劇はそこから始まった。ショックを引きずり、学校のテストでも失敗。算数のテストで85点を取ってしまった。厳しい母に見られまいと隠したテストはすぐにバレた。その時言われた言葉が私の呪いの言葉だった。「役立たず!こんな子私の子じゃない!」
私は母が大好きだった。母に認められたくて、ピアノも勉強も運動も頑張ってきたつもりだった。ピアノの練習ではうまく弾けないと本で叩かれた。休みの日は鉄棒やうんていのイヤイヤながらも練習した。勉強も教えてもらいながらテストでいい点を取れるようにしてきた。

謝るかわりに母からプレゼントをもらったけど気持ちの整理がつかない

母に愛されたくて誕生日プレゼントを買ったり手紙を書いたり、母の日にケーキを作ったり、いろんなことをした。私を好きでいてほしかった。認めてほしかった。私を愛してほしかった。でも、私は愛されなかった。
私とは対照的に姉は優秀だった。あからさまに母は姉をかわいがった。あんたもここまでできたらかわいがってあげるよ。とでも言うように。

絶望した。生きることが初めて嫌になったのがこの時だった。
私が10歳の誕生日に母から財布をもらった。私はまだあの言葉を引きずっていて、母も素っ気なく財布を私に渡した。姉から、その財布はごめんねのつもりらしいとそれとなく聞かされた。「ごめんね」って何?役立たずって言ったこと?こんな子私の子じゃないって言ったこと?それとも何?私を産んだこと?私の育て方?わけがわからなかった。気持ちの整理がつかず、その場にあった折り紙に気持ちを書き綴った。「生きていてもいいことなんてない…」と。

それからしばらくすると、母は何事もなかったかのように私に接するようになった。いつも通り厳しいときもあれば、ただただ他愛もない話をするようになった。母が何を思っているのかわからず不安で、私はどこか母の機嫌をうかがっていた。中学、高校、大学、社会人と成長するにつれ、母は厳しくなくなった。でも私は、どこかあの時の記憶が残っていて、母に役立たずと言われないように洗濯物を率先してたたんだり、休みの日は母の好きな夕飯を作ったりした。

あの時気持ちを書き綴った紙を胸に、強く内面が魅力的な人になりたい

あの言葉をきっかけに、母以外の人の言葉も気になるようになってしまった。異様に反応してしまう役立たずの一言。私は誰からも役立たずと言われたくない。仕事でもプライベートでも、必要とされる存在になるようにふるまった。自分がどれだけすり減っても、その言葉だけはどうしても言われたくなかった。

今でもあの時に気持ちを書き綴った折り紙が残っている。あの時の自分を認めつつ、もっと強くなるために残している。いつか、「役立たず!こんな子私の子じゃない!」の言葉に打ち勝ち、その言葉を乗り越え、もっと強く内面の美しい人になるために。そして「役立たず!こんな子私の子じゃない!」と言ったことを撤回させ、その言葉を言ったことを後悔させるくらい、魅力的な人に、私はなりたい。