「運命の人」と出会うまでの道のりは…?

 大学を卒業し、社会人になってから数年経つ。このくらいになってくると、恋人ができたという友人の話や、いい人はいないのか、結婚して親に孫の顔を見せろという祖父の決まり文句が耳に入ってきて、もう聞き飽きてきた年頃である。

 私には色気のある話はない。そもそも、恋愛には無関心、というよりは人に恋愛感情を抱きにくい性質(たち)なのだ。
 アイドルのファンになるといった経験すらない。もしかしたら恋愛感情どころか、人間に愛着を持つということについても怪しいのかもしれない。このままいくと、恋とは無縁の生活が続くだろう。すまない、祖父よ。

 しかしそうは言っても、某芸能人のギャグを借りるならば、世界の人口は70億人なので、いくら恋愛感情を抱きにくい私でも、70億人中1、2人は恋愛対象としてかすってもよさそうである。
 つまり人生の中で出会う人の母数の問題である。悲しいかな、確かに私には友達・知り合いと呼べる人が少ない。だから今まで恋愛経験がなかったのかもしれない。もう少し様々な人と出会えば、恋愛に無頓着な私も、思いがけず「運命の人」と出会い、恋に落ちるかもしれないのだ。

 やろうと思えば、人と出会う機会はいくらでもある。友人に紹介してもらう、合コンに参加する、マッチングアプリに登録する、TwitterなどのSNSで連絡を取って対面の約束を取り付ける、ナンパする……。
 面倒である。
 友達にわざわざ出会いの場を用意してもらわなければならないし、合コンも、おそらく専用の予約サイトがあって、都合の良い日程をひたすら探す羽目になる。マッチングアプリは、登録してマイページの作成が待っている。面倒な作成の後、ひたすら気になる人にメールを送ったり、受信したメールの取捨選択をしなければならない。SNSでも、Twitterは普段から面白い発言などをしてフォロワーがたくさんいなければ、出会うことすらかなわない。全く知らない人と出会うのには、意外と下準備が要る。

自分の世話で手いっぱいで、恋人のことまで手が回らない

 このままだと、このエッセイを読んでいる方々に、私は冷酷な人間だと思われてしまいそうなので、ここで言い訳をさせてもらうと、人付き合いの下準備に時間をかける心的余裕がないのである。
 自分の世話で手いっぱい、という感である。
 キャリアアップを図って昇給を狙うためにはどのような資格を取ればいいのか、貯金は毎月どのくらい貯めようか、つみたてNISAは自分にとって継続的に続けられるものなのか、といった将来のことを考えることに時間がとられてしまう。

 そして、自分の内面についてもまた、悩みが尽きない。人間関係のこと、自分の生き方のこと、自分の性格のこと、自分、自分、自分…。
 こんなにも自分のことで課題が山積みなのに、どうして他人のことが考えられようか。友人ならまだしも、自分の生活に深くかかわってくる恋人となると事情が異なるだろう。自分の世話で手いっぱいで恋人のことにまで手が回らなそうだ。そうなると、「あなたは冷たい人」と言われて別れ話になる可能性が高い。

 自分でこの文章を書いていて驚きなのだが、無意識ながらも私はナルシストの気があるのだろうか? そして、恋人の存在をお荷物のように捉えていることも。
 恋人も一個の人間。恋人である以前に友人でもあるのだから、対等の存在として尊重しあい、一緒に暮らすのであれば、寮での共同生活のように家事を分担して生活をすればいい。現代では多くの人が、そのような恋人とのかかわり方を理想として描いているだろう。

パートナーが自分にとって重たい存在になりうるかもしれない

 私も、もし恋人ができるのであれば、そういう関係がいい。それなのに、思い浮かべてしまうのは、休日の父と母の姿である。父は寝っ転がってテレビを見ていて、母はその間に、専業主婦として掃除や料理、幼い私の世話とあわただしく動いている光景である。端的に言うと、私の家族は、典型的な、若干時代遅れな家族形態だったのだ。

 父から見ると、母は父の稼ぎに依存している人で、母から見ると、父は家庭を母に任せきりにしてあまりかえりみない人だろう。私の、自分可愛さに相手のことを考えられない、というナルシストな発言も、パートナーが自分にとって重たい存在になりうるかもしれないという意識があるから出てくるのかもしれない。

 私の父母の関係は、いわゆる旧来日本の「男は働く、女は家庭を守る」という家族関係である。私はこの環境で育ってきたので、この家族の在り方しか知らない。なので、私の私生活の中に他人が入ってきたら、無意識にその家族形態における性別役割に基づいた行動をしてしまいそうである。そうなれば、自分のことを考える時間が無くなるだろう。それが、たまらなく嫌だ。

 恋愛感情がないだけではない。私は、こういうことを無意識に考えていて、恋を避けている側面もあるのかもしれない。