わたしは肌が弱い。顔面の肌が圧倒的に弱い。
化粧品は敏感肌用のものを選んでいるが、疲れている時や体調が悪い時は、顔全体が赤くなり、痛みや痒みを伴う。どんな時でも安心して使える化粧水や乳液が欲しくて、色んなメーカーのものを試してきたが、未だに出会えていない。

メイクをしていない自分の顔が好きだし、メイクを頑張る人たちも素敵

皮膚科で処方されるローションも体調によっては使えなくなる。出掛ける前に顔を洗って化粧水をつけると、赤く、痛痒くなる。そんな状態でメイクなんてできやしない。
元々メイクを頑張って研究するほどの気力も意欲もなかったが、最近は日焼け止めと、肌にほとんど影響のない眉毛くらいにしか手を出さない。
別にそれでもいい。コンプレックスはもちろんあるけど自分の顔が好きだし、誰かに何を言われてもどうでもいいし、素直に怒ることができる。
メイクができなくてもいいので、もう少し逞しい肌に育って欲しい。
わたしはできなかったけど、メイクを研究して可愛く、美しく、かっこよくなるために頑張っている人は魅力的だ。女性でも男性でも。
雑誌やSNSに出てくる「モテるメイク」や「モテるファッション」。
相手にしているのは“メイクをする人“なのに、”メイクをしている女性を見る男性“にフォーカスされるのが納得いかない。
好きな人に好きになってもらいたいから、なりたい自分になるために、本当の自分を表現するために。それぞれに全部素敵だ。
自分がそうしたくてしているということが重要なのだと思う。
メイクやファッションは誰かに強制されるものではない。

スッピンは醜いものと話題にされるのは女性だけという不思議

今はそう思えるけれど、最近までは、他人のメイクについてあれやこれやと勝手に評価することがあった。大人になるにつれて「メイクをするのは当たり前、しないのは相手に失礼」と思うようになったからだ。
他人の見た目に口出しするほうが圧倒的に失礼だが、今でもそう思っている人は結構いるのではないか。
わたしが通っていた専門学校では「自然に見えるメイク」「血色を良く見せるメイク」が最低限のマナーであり、身だしなみの基本だと教わった。当時は何を言われても疎ましく思っていたが、その件に関しては納得している自分もいた。
スッピンは醜いもの、という意識があったのだろう。不思議だ。
街を歩いているおじさんやテレビに映るおじさん達のクマやシミは、大抵が手付かずじゃないか。女性のスッピンが醜いのであれば、それらだって醜いという話になるだろう。
しかし、実際話題にされるのは女性だけだ。江戸時代ですら、メイクとは「女性が自由に楽しむもの」だったのだから、この令和では「女性も男性も関係なく自由に楽しむもの」として欲しい。 メイクをするのも、メイクをしないのも、どんなメイクをするかも、全て本人の自由であるべきだ。

"身だしなみ"という言葉や考えに縛られず、慎まないで生きていく

自由にしづらいのは、メディアの影響も大きいが、“身だしなみ”という言葉とセットにある凝り固まった考え方のせいでもあると思う。
“身だしなみ”とは、相手に対して不快感を与えない服装や振る舞い。相手に不快感を与えるのはわたしも避けたい。地球に住んでいる人間の一人として、出来れば他人に不快感を与える存在にはなりたくないし、こちらも与えられたくない。
それに関しては理解できるのだが、身だしなみの例には、女性のメイクに関する記載があることが多い。
いやいや、わたしたちは顔に何かを塗らないと不快感を与える存在なのですか?ツッコミを入れつつ鼻で笑ってしまう。
そもそも「たしなみ」という言葉に異議を唱えたいところである。「女性のたしなみ」というと「女性らしくあることや、慎み、遠慮を心がけること」という意味合いになる。
それを美徳とする人はそれでいいが、自分の見た目や存在そのものを慎む必要はないと思う。
「わたしはここにいるぞ、これがわたしだぞ」って背伸びして、思いっきり目立ったって良い。もちろん目立たなくても良い。みんな好きにして欲しい。わたしも好きにするので。
そうやってみんなで自由に生きていく世界はどうだろう。絶対に楽しい。それでいこう。