幼い頃から、メイクをしたがる女性の気持ちが理解できなかった。
お出かけの度に母や祖母がフルメイク武装するのを見ていて、妙な気持ちになったことを覚えている。
不特定多数の他人に姿を晒したって、どうせ誰も彼女らをまじまじと見やしないのに、なぜ唇を赤く塗らなければならないのか、なぜまつ毛1本1本の太さにまでこだわるのか……。
そして、それで本人たちが美しくなれたと自己認識しているのも滑稽に見えた。
そりゃあ私自身、綺麗な肌や大きな目に憧れはあった。
でも、人工的な美しさを自らの顔に施したところで、何かが違うような感覚が拭えないんだろうなという気もしていた。
それでも、世の中の大人の女性は当たり前のようにメイクをするし、街中のお店では多種多様な化粧品が入れ替わり立ち替わり陳列されている。
だから、大人になったら私もそれなりにメイクするようになるのかな、と漠然と考えていた。
「最低限の身だしなみ」は満たしても、やはりメイクに興味を持てない
しかし、大学生になり、周囲の女子たちが垢抜けていくのを見ても、メイクに興味を持つことはなかった。
ミニミラーすら持たなかった私は、母から「女の子として最低限の身だしなみ」云々の説教を何度されたか計り知れない。ただ、興味が持てないものはどうしたって持てないのだ。
私は容姿に特別恵まれているわけではないため、さすがにドすっぴんはよろしくないことは重々承知していた。特に印象が変わりやすい目の周りと肌は、何かしら施しておく必要性を感じていた。
だから日焼け止めとリップクリーム以外では、アイライナーとアイブロウとCCクリームだけを所有していた。私にとっては、それで私の「最低限の身だしなみ」は満たせていたからだ。
それでも日によっては、煩わしさの方が勝ってしまい、その3つすらフルに使わないこともあった。
就活の際に、重い腰を上げて本格的にメイクの勉強をしてみたものの、やはりメイクを好きになることはなかった。
リップを塗ると気軽に飲み物も飲めなくなるし、アイシャドウやマスカラをしていて迂闊に目をこすれないことが予想以上にストレスだった。
そもそも顔に色々と塗ったところで、そうしない場合との違いがよくわからない。確実に違うのは、朝の支度にかかる時間とメイク直しの手間。割に合わなすぎた。
結局、就活用に新調したメイク道具は、就活が終わると同時に手を付けることもなくなった。
「適切なメイクは最低限のマナー」と教わったけど、“適切”って何?
よく「メイクをすると自信が持てる」と言われるが、残念ながら私にはその感覚がよくわからない。むしろ、「本当の自分ではない誰か別の人間」の化けの皮を被った気分になって、畏縮してしまう。
そんなガチガチに化けの皮を被って臨んだ就活を吐き気がする思いで乗り越え、今では私もそれなりの社会人生活を送っている。アイライナー、アイブロウ、CCクリームのラインナップは学生のときから変わっていない。
学生の頃、母から口酸っぱく言われたことの再来かと思うほど、入社時研修で真っ先に教わったことの一つが「適切なメイクは社会人として最低限のマナー」だった。
でも、“適切な”メイクって何だろう?
教科書的な答えとしては、全体的にほどよく手が加えられた顔に整えることであって、他者から好印象を持ってもらう、少なくとも悪印象を持たれないためのものなのだろう。
でもそれと同等に、自分が快適に思えて、そんな自分の状態を好ましく思える気持ちもメイクをする上で大事だと私は思う。
前者が最大公約数的な美しさなら、後者は私なりの美しさだ。
私には“手抜き”メイクが収まりがよく、この日常に満足している
私のメイクが“適切”かどうかは、賛否両論あるだろう。
「女の子として」「社会人として」……世の中から突き付けられる要求に、確かに私は“適切”には応えられていないかもしれない。
でも少なくとも、現状の私の“手抜き”メイクが私にとってはとても収まりがいいし、それが原因で嫌われたり困ったりしたことはない(と自分では認識している)。
フルメイクしなくても、こんな平凡な顔の中にも私はいくばくかの美しさを見出せている。そして、この日常に満足している。
“手抜き”メイクをするからこそ得られる、こんな美しさもあっていいんじゃないかな。