年を重ねて変化したメイクへの気持ち

「垢抜ける」という言葉が苦手だ。
いや、そもそも見た目を評価されることが苦手なのだと思う。

母はメイクをしない人だった。
プリンセスに憧れるようなタイプでもなかったため、幼少期にメイクに憧れを持った記憶は一切ない。
高校生になってもそれは変わらず、自称進学校で校則も厳しかったことから、私はメイクというものに触れることがないまま大学生になった。

この外見でわたしは普通なのだろうか。周りに合わせてメイクをした

入学当初は面倒だと言い張って、メイクなんかしないつもりだったのに、周りのみんなにおいて行かれるのが嫌で、周りに合わせてメイクをするようになった。大学1年の夏頃だったと思う。

そんなこんなでメイクをするようになると、私の子供っぽいすっぴんは、「芋っぽい」から、「童顔、幼顔」と評価を変えた。すっぴん自体は何も変わっていないのに。メイクをしてもしていなくても私は私なのに。
こんなもんか、と心の中で思った自分がいた。
所詮外見の評価はちょっとしたことで変わるのだ。良くも悪くも。

それでも他人に言われると気になってしまう。そういうところがずっと煩わしくて苦手だった。だから最初はメイクも、私にとって処世術のひとつに過ぎなかった。周りから外れず、目立たないようにメイクをしていた。

メイクをしない友達のほうが多ければ、私はメイクをしていなかっただろう。
自分の外見にさほど興味はないのだ。気になるのは、この外見でわたしは「普通」なのだろうかということ。
目立ちたくなかった。周りがメイクをする中で、自分だけしないでいると、素の自分に自信があるようにみえるのではないか、そんな被害妄想までしてしまうほどに。

メイクは自分にとって、その日の気分を作る手段だと気づいた

気持ちが変わってきたのは、社会人になってからだ。
メイクをした日としない日で自分の気持ちが違うことに気づいた。
朝、鏡をみて、「あ、今日は上手く出来たかも」と思うとうれしくなる。好きな人に会う日は普段より丁寧にメイクしている自分がいる。

私はきっとずっと前から自分自身のためにメイクをしていたんだろう。
きっかけは周りに溶け込むことだったけれど、メイクで顔の印象が変わること知り、それは自分にとって、決して嫌なことではなかったのだ。自分の気持ちを切り替えることができる。メイクはその日の自分の気分を作る手段の一つになっていた。

他人の評価に振り回されたくない。メイクは私の心の鏡であって欲しい

そのことに気づいてからは、自分の気持ちに合うメイクをしたいと思っている。
したくないときはしない。濃いメイクをしたいときは濃いメイクをする。
他人からの評価はどうせすぐに変わるのだから。
もちろん何を言われても気にしないなんて、かっこいいことは言えないし、他人の評価に引きづられることもあるだろう。

それでも私にとってのメイクは私の心の鏡であって欲しいと思う。
なりたい自分でいるための手段としてメイクがある。
外見の評価に振り回されたくない。そんな私にはこのくらいの距離感があっている。

今日はどんな自分にしようか。そんなふうに毎朝考えるのも、案外悪くない。