10代の頃、私は一重まぶたが嫌いだった。なんとかしてメイクで二重を作ることに躍起になっていた。
メイク雑誌もモデルもアイドルも、二重のぱっちり目しかいない。一重の人間なんて大勢いるのに、一重は美の基準から完全に外されている。
何度も塗り直し、線を引き、ため息が出る。二重という美の基準に寄せる努力。この国の美の基準を初めから満たしていたら、こんな努力も苦労もしなくてすんだのに。
一重メイクで「ありのままの自分」に、なれたのだろうか?
20代になった頃、私は無理な二重メイクで肌に負担がかかり、まぶたがかぶれてしまっていた。そして、二重メイクができなくなったこともあり、20歳を過ぎてからは一重メイクをするようになった。
一重メイクといっても簡単ではない。まだ二重メイクほど化粧品の種類も技術も多くはないため、納得できる仕上がりには、なかなかたどり着けない。ただの一重メイクではだめなのだ。“一重なのに”綺麗、可愛いといわれるテクニックを駆使した一重メイクでなければ嫌だ。一重に戻した途端、やっぱり可愛くないなんて思われたくない。
その後、「一重でも綺麗、個性的で魅力的!」と主張できるようになりたくて、5年程一重メイクを追及し続けた。
しかし、自分なりに努力はしたけれど、20代も半ばを過ぎるとだんだん面倒くさくなってきた。そもそも、どうして私はこんなに必死になって一重まぶたのメイク方法を探し、練習しているのだろ。「ありのままの自然体な私」っていうけど、それって何なのだろうか。
一重だろうが二重だろうが、自分が可愛いと思う方を楽しめばいいのに
二重メイクをやめた時、私は優越感に浸っていた。メイクで二重を作ったり、整形したりするのは負けだ。自分に自信がない人、周囲の評価に流される人、私は違う。そうして、二重メイクをする一重の人を見下すようになっていった。
私だって同じだったのに。私はもうあなた達とは違う、必死になって皆と同じ二重にするなんてかっこ悪い。そうやって二重を目指す人達をばかにするようになった。
それでは自分の一重まぶたを誇りに思っていたかというと、そうではなかった。相変わらず一重を好きになれずにいた。ありのままでいいとはいえ、スタンダードから外れた道に足を踏み入れるのは疲れるし、しんどい。自分の価値観を変えることがこんなにもしんどく、難しいことだとは思っていなかった。
自分の価値観、美の基準を新たに持ち、一重は綺麗、ありのままの私でいい、二重に憧れる必要なんてない。そう自己暗示をかけ続けることに、疲れてしまった。なんでもっと素直に、本来の自分の顔を受け入れられないんだろう。気に入らない部分を受け入れる努力をできないんだろう。一重メイクを楽しんで、一重の顔にポジティブになれないんだろう。
斜に構えて自分の都合のいいように、他者をマウンティングしている
そもそも、なんでこんなに目の上のシワ1つにこんなに悩んでいるんだろう? 精神的に調子が良い時は、素直に受け入れられるのだ。ポジティブに、私は私! 私は一重のこの顔が好き、大事な私の個性、一重が可愛くないなんて世間の価値観なんて関係ない! と胸を張っていられる。そして正直、そんな自分に酔っている。私、自立してますから。世の中のスタンダードに流されてませんから、と。
結局、自分のプライドに自分で振り回されているだけなのだ。二重にして可愛いを手にした人、一重を受け入れ自立したかっこいい人。そのどちらにもなりきれず、斜に構えて自分の都合のいいように他者をマウンティングしてしまう自分に、嫌気がさす。
つべこべ言わずに、二重にしたい時は二重にし、一重を楽しみたい時は一重メイクをすればいいだけのことなのに。
もう20代も後半だというのに、なんて子供じみた悩みなんだろう。10代の頃、大人になれば自分の美の基準をしっかり持ち、流されず、自然体なメイクを身に付けているはず、メイクともっと上手く付き合えているはず、と思っていた。
現実は全然違う。私はまだ、メイクとの距離感を測りかねている。