「また電話するから、話し聞いてな」
そうお決まりの念押しとともに通話が切れる。電話の子機の液晶画面には、一時間三十八分という通話時間が記録されている。
これはまだ携帯電話が主流ではなかった時代の話だ。当然、チャットアプリやメールなどもない。というわけで、小学校時代からの親友の恋愛相談に乗るには、電話の子機を両親の寝室から掠め取ってくる必要があった。

親友に頼られて。毎回、なけなしの想像力を振り絞り、答え続けた

親友の名前はサキという。
私は地元の中学校に進学したが、サキは受験をして女子中学校に進学した。
ここ数か月の彼女は、昨年の文化祭で知り合った他校の男子との交流に浮かれきっていた。その浮かれぶりときたら、まるで男子という生きものを初めて知ったかのようだった。
曰く、「〇〇くんに電話してええかな」「〇〇くんと会うんやけど、どんな服にしよ」「次のデートって私から誘っていいもん?」等々。
サキの相談事は多岐にわたった。私がまるで〇〇くんのすべてを知っていると信じているかのようだった。もちろん、それは流石に重責に過ぎ、私は少々の割り切れなさを抱えたが、果たして私は彼女の相談に乗り続けた。
何はともあれ親友に頼られるというのは嬉しいものだ。親に怒られるリスクをおかし、子機を掠め取る労力を払うくらいには。

私は毎回、なけなしの想像力を振り絞り、答え続けた。
「私が〇〇くんやったら、サキからの電話は嬉しいと思うわ」「あのブラウスなんかどう。〇〇くんにも好評やと思うで」「サキにデートに誘われて嫌な男子なんておる?」
そして、またぞろ先ほどの電話である。

耳年増だった私はなんの「経験」を指すのか、すぐに察した

話し始めて一時間が経ったころ、サキは爆弾を私に投げつけた。
「実はな、この前会ったときにな、キスされて、ん……」
一時間では心の準備は仕切れなかったのか、恥ずかしそうに言葉に詰まるさまがいっそうリアルだった。
「それでな、け、経験、ある?」
経験。耳年増だった私はなんの「経験」を指すことなのか、すぐに察した。

私の通う中学校では、猥談は大人への入り口だという共通認識があり、知った顔で受け流すことが、「大人っぽくて格好いい」ことだった。
「経験はないけど、やり方は知っとる」
私は咄嗟に格好よさを取り繕った。
「さすがやな、物知りやわ。なぁ、教えてくれん?」
いっぽうのサキは、その格好よさを繕おうなんて考えたこともないらしい。
私は彼女の邪気のなさと、寄せられる全幅の信頼に押し負け、知識をレクチャーすることとなった。ただ奇妙なことには、聞きかじりの知識を披露するたびに、〇〇くんの話になるたびに感じていた割り切れなさが、はっきりとした鬱屈に化けて、腹の奥で膨らむのだった。
「――ざっくり、説明したらこういうことや」
「ありがと、不安しかないけど……頑張る」
「サキに頑張らせるようなやつやったら、やめとき。さっさと別れや」
「別れや、て」
「せやろ。やってな……」

わずかにでも彼女からの信頼を損なわないよう、完璧な演技をこなした

ひと息詰めて、私は言おうとしたことを一度、飲み込んだ。何を言おうとしたかって、こうだ。
「私のほうがよっぽどいい恋人になれるしな」
本気でそう言おうとした私自身に驚く。驚き、――しかし、納得した。なるほど、感じていた鬱屈は嫉妬だったのか、と。私は同性を好きになるタイプの人間だったか、と。
まあ、自覚したとはいえ、はいそれならばとカミングアウトする勇気は、当時の私にはなかった。
だから、私は生まれたての初恋を絞め殺しながら、言葉を選びなおした。サキに気取られないように、わずかにでも彼女からの信頼を損なわないように。
「私のほうが、よっぽど、サキのこと好きやしな」
「ふふふ、ありがとう、友情に感謝やわ!」
サキは優しく笑いながら答える。「元気出た。また電話するから、話し聞いてな」。
どうやら、私の演技は完璧だったらしい。サキは私を親友として信頼したまま、電話を切った。
一時間三十八分。
子機の液晶画面が暗くなるまで見つめながら、私は、サキを思った。

股間を拭いながら、あとにも先にもいちばん情けない格好で号泣した

小学校からの親友。中学校に上がっても、進路が別れてもその親しさは変わらず続いていた親友。心がいちばんそばに居るから親友なのだ。心がいちばんそばに居るなら、私が恋人になったって構わないじゃないか。ぽっと出の〇〇くんではなく、私こそが。
つと、ピピッ、ピピッ、と子機が騒がしく電子音を立てる。充電が切れかけているのだ。
そうだ、寝室に返しに行かなくては。
現実に引き戻され、私はのろりと立ち上がった。……そして、ふいに、股間に不快感を抱く。その感覚には覚えがあった。
ベッドに子機を放り投げ、部屋着のズボンをおろす。
ショーツの真ん中が赤黒く濡れている。生理だ、――私が女であるという証。男の子とセックスして、番うことのできる性別であるという証。私が、サキと、同じ性別であるという証。
私はその赤黒い染みを見下ろし、そして、ハッと気がついた。これは先ほど出せなかったものが出てきたのだ、と。腹に抱え切れなくなった鬱屈が、嫉妬が、恋心が、出口を求めて、ついに出てきたのだ。よりにもよって私に、私自身の身の程を突き付けんばかりの、乱暴な現象として。
私は悲しさにうめいた。悟ってしまったからだ。
いくら心がサキのそばに在ろうとも、私は彼女に選ばれる資格を持たないということを。そして、これから先もきっと、私は生まれ持った女に負ける恋をしては、苦しむだろうということを。
汚れたショーツを脱ぎ捨てて、ティッシュで股間を拭いながら、私はわんわんと泣いた。
それはもう、泣いた。まったく、あとにも先にもいちばん情けない格好での号泣だった。

その後、サキとは連絡を取っていない。この前フェイスブックに友だち申請が来ていたけれど、許可することなく放置している。
でも、潮時だ。この話を書き終えたら連絡を取ってみようかな、と思う。過去の思い出として書くことができた今ならもう、苦い初恋の記憶とまっすぐ向き合うことができる気がする。
まずはメッセージから。「長電話でもしようよ」と、いきなり誘ってみるのはどうだろう。