私は、元気のありがたみを強く感じている。それは、元気じゃなかった時があるから。

高1の時、身体が重く起き上がれなくなったが、元気になり嬉しかった

元気じゃない日々は、予告も許可もなく訪れた。高校1年の秋のある朝。急に身体が鉛のように重くなり、起き上がれなかった。その日から、自分を動かすのがとてもしんどい日々が続いた。どうにか学校に行こうと頑張ったが、進級に必要な単位を満たせず、高校2年の終わりで中退をした。

紆余曲折を経て、元気のない日々から脱却して、私は大学生になった。自分が元気であることが嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。

元気があれば、私の大好きな吹奏楽やオーケストラができる。元気があれば、授業もたくさん受けられる。元気があれば、もっと学びたいという意欲の赴くまま、留学もできる。元気があれば、気のおけない友達とオチのない話をして笑い合える。元気があれば、部活で学生指揮者という責任のある役職に就いて、失敗と成功を繰り返しながら成長できる。

元気がなかった時にできなかったことを、できるだけしたいと思った。いつまた元気がなくなってしまうか分からないから、元気のあるうちに、元気があるからこそできることをしようと思っていた。

元気なうちに詰め込んでしていたら、私の「キャパ」を越えてしまった

そんなことをしていたら、日々の活動が元気でいられるキャパシティから溢れてしまって、また元気がなくなった。不器用だなぁと思う。自分のキャパの中で生きるのってなんでこんなに難しいんだろう。そんな大小の波を繰り返しながら、今に至る。

私が元気のためにしていることは、「私、元気でい続けるのがどうしても下手な人なんです」ということを公表すること。もっと具体的にいうならば、精神疾患を持っていることを公表すること。

最初に言っておかなければいけないのは、これは私にとっての正解であって、誰もに共通する正解ではないということ。こういう人もいるんだなと思いながら、読んでいただけたら嬉しい。

元気でい続けるのが下手なことを自らオープンにしていくと、まず人前で元気がなくなってしまった時に安心だと思う。あ、今元気がないんだな、そっとしとこうと周りに思ってもらえるのは、本当にありがたい。どうしたの? 何があったの? と詮索されてしまうと、もっと元気がなくなってしまうから。

私が元気でい続けやすいように、自分の性格を「オープン」に話した

元気でい続けるのが下手であることを打ち明けた時、どんなに言葉を選んで伝えても、まっすぐに私の思いを受け取ってもらえないことがある。人間同士だからしょうがない、考え方の相性はあるだろう。

このことを打ち明けることで、私が上手く対話できる相手かどうかを、見分けることができるのだ。この人とは上手く対話ができそうにないなと思ったら、お互いの元気や幸せを侵害せずに済む程度の距離を取る。こうして私は、私が元気でい続けやすいような周囲の人間関係を築いている。

それに、一緒にいると元気でいられる人は大抵、元気が少なくても一緒にいてくれる人だ。矛盾しているようだけど、元気じゃない日々を経験して、今でもたまに元気が少なくなる私だからこその、少しでも元気でいられる方法が、これなのかもしれない。

「元気でい続けるのが下手です」と言ってしまってからは、無理に取り繕って外面の元気を保とうとしなくなった。それが、結果的に元気でいられることに繋がっている、そんな気がする。

元気がたくさんある時は、元気を存分に活かす時。元気が少ないなと思う時は、元気をチャージする時。この2つは交互にやってくる。でも、なるべく元気を活かせる時がいっぱいだといいな、なんて、欲張りな私は思った。