“諦める”という言葉には、なぜかマイナスイメージがある。「諦めるな!」「諦めたら試合終了」など、“諦める”ことが悪いことである前提を含んだフレーズが一般的に使われている。

しかし、私は毎日できるだけ元気でいるためには、悪者にされがちなこの“諦める”ことこそ大事なことだと思うのだ。……などと偉そうに言ってみたが、つい半年ほど前まで私は“諦め”の悪い真面目な人間だった。

「真面目でかっこいい努力家の私」を諦められず、心を病んでしまった

学生の頃から「努力」「真面目」が私の取柄であり、アイデンティティだ。努力すれば勉強も部活も結果は出る。それに努力もしないで、現状を嘆いている人間にはなりたくもなかった。正直言えば、そういう同級生を見下してすらいた。

社会人になってからは周囲の優秀な社員と自分を比べては落ち込み、周囲が当たり前にできることができない自分を責めた。趣味から派生して始めた副業も思うようにいかず、私の人生を支えていた趣味たちを心から楽しめなくなってしまった。

それでも「真面目でかっこいい努力家の私」を諦められなかった私は、ついに心を病んでしまった。毎日のように意味を為さない涙が流れ、頭はただひたすら自分の心を責めていた。

なんで私はあの人みたいにかっこよくなれないんだろう。なんで私はあの人みたいに才能がないんだろう。どうして社会人は、努力でどうにもできないものが重視されるのだろう。

何をしても嬉しくないし、何をしても楽しくない。ただ虚空を歩くような希望のない日々のなか、脳裏には「死」すらよぎった。そんな最悪の選択をしそうになった瞬間、「もう諦めよう、死ぬよりマシだ」という考えにたどり着く。私は理想の自分を諦め、あらゆるプライドを捨てたのだ。

私は理想の自分を諦め、あらゆる「プライド」を捨てることを選んだ

まず、生理のときでもまるで生理痛なんてないかのように働く「かっこいい女性」を諦めた。生理のときは、休むことにしたのだ。……といっても休むことに罪悪感を抱く生粋の真面目人間だったので、生理痛のひどい期間は「インプット週間」と名付けた。「美味しいものを食べに行くのは社会人としての人生経験」「漫画を読むのは副業で活かすため」「読書は教養のため」など、何かしら言い訳を作って「結果的に休む」手法を取った。

また、優秀であることも諦めた。よく考えたら優等生であることになんの付加価値もないことを、元優等生である私はよく知っていたのだ。仕事は求められることだけをやっていればいい。そこで工夫できることに気がついたら工夫すればいい。誰にも求められていない「優秀な私」を取り繕って心を病むよりは、求められることを精一杯やることが会社への貢献でもあるのだ。

“諦める”という言葉は、“損切り”に近い意味があると思う。無駄な理想にしがみついて自分の心を殺していたら、人生の損失はどんどん大きくなっていくだろう。

膨れ上がりそうな理想の自分を諦めることが、私の元気に生きるコツ

たとえば私は生理のときでも通常通り働くのが「理想の自分像」だった。でも、無理をすれば仕事のミスにもつながるし、無意識に同僚に冷たく当たっていたかもしれない。そんなことが続けば「理想の自分」になれるどころか、周囲の信頼はどんどん失われていく。

他にも、破れた恋だって諦めた方がいい。自分のことを好きではない人間、ましてや弄んでくる人間に対し「好きになってくれるかもしれない」と期待する時間がもったいない。冷めた見方をすれば恋なんて勘違いなのだから、そんな勘違いはさっさと損切りした方が次に進める。

月並みだが、他にもいい人はいる。自分を好きになってもくれない人にわざわざ執着するより、終わった恋を諦めてゴキゲンな私を取り戻した方が、早くステキな恋に出逢える。

気に入らない自分の顔も、諦めた方が得策だと感じる。一度整形に手を出したら、美容のためにローンを組むことが当たり前になってしまう。人生を幸せにするための整形が、整形のための人生になってしまったら本末転倒だ。

整形するだけのお金と時間があったら、顔以外の自分のウリを磨いた方が人生は多方面で豊かになると思う。さらに、美人でない自覚があるなら、誰かに好きになってもらえたときに「中身を見てもらえたのだ」と確信できる利点だってあるのだ。

理想の自分、無駄な期待は“諦める”。膨れ上がりそうな損失は早めに切り落とすことが、真面目な私が見出した元気に生きるコツだ。