画面を叩き割りそうになる。「他人との生活は自身に向くまい」と腹を決めた二十九歳の私に、どうしてマッチングアプリの広告なんて見せてくるのだSNSってやつは。同世代向けのコスメやエンタメ、洒落た内装のお店、自室をすっきり片付ける家具、そんな情報を眺めているだけで、婚活情報をご丁寧にご紹介くださる。見当違いも甚だしい。マーケティング方針を問い質したい。こちとら、それに興味があったらタイムラインの警備などしていないんですよ。

恋愛・婚活・結婚報告 努力する彼女たちは輝いて見える

 たしかに私は、いわゆる(カビの生えた概念だけれど)適齢期という年頃なのだろう。周囲からも結婚報告を受けることが増えた。これから結婚する知人、したいという友人も少なくない。
 先日知り合ったばかりの同僚なんて、あらゆる婚活イベントを練り歩いてきた強者だった。くるんと上向きの睫毛を揺らしながら、にこにこと武勇伝を語る結婚間近の彼女にとっては、婚活こそ誇るべき戦いの日々らしい。自分の得たい人生に向かって邁進する姿は輝いて見える。だから友人知人に限らず、婚活をがんばる人たちを私は素直に応援したい。結婚生活を現に送っている人だってそうだ。皆、人生のために努力できる人間として、胸を張って暮らしてほしいと思っている。

いっそ「保険」としての婚姻関係なら私にもできるかしら

 だけれど、いざ自分はといえば。
 仮に「結婚」をひとまず「パートナーと生活空間や人生の時間を一定程度共有すること」と捉えるなら、まったく私には不向きと判断せざるを得ない。

 いっそ、法律上の婚姻関係のみを「保険」として締結するなら、悪くないかもしれない。事実婚という言葉があるけれど、むしろその逆だ。なにしろ婚姻契約は結局、現状の日本社会で暮らすには利便性が高い。センシティブな個人情報へ相互アクセスするにも特段の申立てが要らず、公的窓口での手続きを相当数代行可能で、入院時の書類へサインだってできる。これが住所や戸籍を同一としていない場合、どれほど面倒な証明が必要になるかと考えると、有事の際の最低限の手続きだけを行う委託契約にはちょっとだけ惹かれる。でも、私が高齢で倒れるまでにはそういう見守りサービスが充実してくれるだろう、きっと。

 こうまで私が考えるのは、自分に他人との生活はできないと思うからだ。

乖離している理想と自分 自覚しているから私はひとりを選ぶ

 私の人生の邪魔をしないでほしい、と思う。
 友人どころか、実の両親に対してさえそう思っている。
 どうやら私は、他人に「歩み寄る」こと自体にアレルギーがあるらしいのだ。友人との会合や、職場での一時的な嫌みの受け流しくらいは訳無くても、夫婦間の問題となれば規模が違う。「自宅という空間」や「人生の時間の多く」を、誰かと中長期的に共有しながら譲歩し合うだなんて。私はそんなにできた人間ではない。
 共同生活を営むには当然、当事者間の歩み寄りが必要だ。疑うべくもない。片方だけの苦悩や、一部の犠牲で成り立つのはいただけない。夫婦生活なら、二人の信頼関係の積み重ねが暮らしを豊かにするはずだし、そうあるべきだと思う。
 ようするに理想が高いのだ。別に、高層マンションに暮らしたいとは思わない。だだっぴろい庭に白く大きな犬を走らせようとも考えない。社長夫人も興味がない。ただ、「結婚生活は夫婦間の思いやりで穏やかに保たれるべきだ」という絶対の理想があって、そういう結婚しかしたくはないし、それができない自分は結婚しない方が心安らかに暮らせると信じているのだ。
 理想を修正するでもなく、理想を目指して自分を変えるでもない。ああせめて、身勝手を自覚して結婚をしないだけ、情状酌量の余地があると誰かに言ってほしい。こんな人間が興味本位で婚活戦線に踏み込むのは周囲の機会損失というものだから、本来のターゲット層のためにもやっぱり、SNSは私にマッチングアプリの広告なんて見せないでもらいたい。