郵便局を出ると、雨はやんでいた。6月下旬の雨上がりの空気は、その一粒一粒に水分がしっかりと含まれていて、むき出しの腕があっという間に化粧水をつけた後みたいにしっとりとなった。

湿度が100パーセントってことはさ、水の中にいるのと同じってことだよね、と、昔ある人が言っていた。私はそれは違うんじゃないかと思ったけど、黙っていた。
水の中にいるのと同じってことはさ、とその人は続けた。歩いていると思っても、それは泳いでるってことになるよね!
その人はその後、友達と一緒に、湿度100パーセントの日に実際に大学の広場まで行って「泳いだ」らしい。

悩んでいた私に、早いとこ縁を切れ、と言ってくれた先輩

こんなくだらないことをなんだって人は覚えているのだろう。覚えていたいのに忘れてしまうことはたくさんあるのに。

おそらく、たった今郵便局で小包を送った相手が、大学時代の先輩だったせいだろう。
返す返すと言いながら、ずっと借りっぱなしになっていた本とC Dを、私はやっとこさ重い腰をあげて送り届ける手配をしたのだった。
彼は着払いでいいと言っていたけれど、ずいぶんと返すのが遅れてしまったので、さすがに送料はこちらでもった。

しかも、その先輩には、去年の夏にずいぶんとお世話になっていた。
ある人に煮え切らない態度をとり続けられて悩んでいた私に、遊ばれているだけだから早いとこ縁を切れ、と冷静な判断を下し、諭してくれた。後になってわかったことだが、私は実際にただの遊び相手の一人だった。

その後もうじうじとその人のことを引きずっている私を見かねて、もっと男性心理を学んだほうがいい、そうすればもうこの先傷つくことはないから、と言って、私に無理矢理マッチングアプリをインストールさせ、プロフィールに載せる写真選びから自己紹介の文章の添削までしてくれた。

彼女と同棲を始めた先輩。私はある時期好きだったのだと思う

なかなか極端な荒療治だったが、私は今実際にそのマッチングアプリで出会ったある人とお付き合いを重ねている。人生何があるかわからないものである。

実は彼自身も、数年前に大失恋をして、女性心理をもっと学ぼうと思い、マッチングアプリを始めたらしい。住所を聞くために一番最後に連絡を取った時、ある女性にがっちりハートを掴まれてしまい、彼女のアパートに転がり込むかたちで同棲を始めたと言っていた。もう猫まで飼っているらしい。
だから、今さっき小包に貼り付けた送り状に書いた住所は、初めて聞く千葉県のとあるアパートの住所だった。 

一風変わったところもあるけれど、優しくて、頭がよくて、料理が上手なその先輩のことを、私は大学時代のある時期、好きだったのだと思う。もうなんとも思っていないけれど、優しいが故に傷ついてしまうことの多い彼が、もうこれからは傷つくことのありませんように、彼女と猫と、幸せに暮らせますように、とそっと祈った。

ふと聞こえてきたセミの声は、私の心を高揚させた

駅に向かって歩き出そうとしたその時、雲の合間からうっすらと日の光が差してきた。
そしてまるでそれが合図になったかのように、道の両側に植えられた街路樹の上の方から、セミの鳴き声が聞こえてきた。
それは、今年初めてきくセミの声だった。
み、み、みーん.......みん...みん、みーん…という、なんともぎこちないその鳴き声は、その声の持ち主が地中から出てくる時期を間違ってしまったように感じられた。周りに聞けるセミもいなくて、鳴き方がわからないのかもしれない。

それでもその振りしぼるようなセミの声は、たしかに私の心を高揚させた。
夏がもうそこまできているのだ。それは、400mトラックのスタートラインに立って、スタートの合図を待っている時の胸の高鳴りに似ていた。
青い空と、白い雲、それをバックに燦々と咲き誇るひまわりの季節が、もうそこまでやってきている。
この季節はいつだって、新しい冒険を用意して私を待っていてくれた。さあ、今年の夏は、どこへ行こう。

位置について、よーい、ドン。

まずは家に帰って、彼に今年初めてセミの声を聞いたことを報告しよう、そう思いながら、私は駅に向かってゆっくりと歩き出した。