ある週明けの月曜日。その日、私と彼は朝10時に電話すると約束していた。休みが不定期な私たちで、たまたまその時間がお互い都合が合ったからできた約束だった。
数日前まで、2月とは思えないほど暖かく陽気な日が続いていた。しかし、この日は朝から季節を逆戻りさせるような冷たい雨が降っていた。

マッチングアプリで出会った彼は、部活の先輩のような居心地の良い人

彼と知り合ったのは某マッチングアプリ。それまで敬遠していたが、この2~3年本当に何も出会いのきっかけが無かった。学生時代の身近な友人たちの結婚した、同棲を始めたという報告が相次いだこともあり、登録するだけしてみようと思い立った。
年末年始に3人の男性とやりとりしていたが、年が明けても話が続いたのが彼だった。アプリで出会う人で、こんなに昔からの知り合いのように話せる人が存在してたのか、と驚いた。
中学高校の部活が一緒で、もしかしたら大会の会場とかですれ違ってたかもという話。共通の知り合いが実は10人以上も居て、世間って狭いねという話。2人ともテレビのワイドショーや騒がしいバラエティー番組が苦手で、すぐチャンネルを変えてしまうという話。
直接会ったのは4回だけだったけど、私は彼に何となく「同じ部活の先輩」と似た空気を感じていた。それが居心地良くて、ついつい甘えてしまっていたのかもしれない。

約束の時間が来た。「今、大丈夫?」メッセージを送った瞬間、ザーッと激しく雨が降ってきてしまった。
ああ。こんなに強い雨の中だったら私の低くて籠りやすい声なんか聞こえないや。こっちが全然大丈夫じゃない。
彼から返信が返ってきた。
「電車降りるから一瞬待ってー!」
ほっ。良かった。
「はーい」と返し、その間に私は駆け足で屋内に入る。乗り換えなのかな?途中下車なのかな?
また返信が来た。
「おっけ!」
私は発信ボタンを押した。

手のひらを火傷をし、不安な気持ちを彼に慰めて欲しかった

なぜ、わざわざ私が彼に電話したのか。それは前日の仕事中、私が不注意で手のひらを火傷して大きな水膨れを作ったからだ。
最初は数ミリ程度で冷やせば治ると思っていた水膨れが、数時間で枝豆の粒くらいまで膨れ上がった。こんなに大きな火傷を負ったことは人生初だった。
利き手である右手だから、どんな作業するのにも痛くて我慢ならない。不安で心細くなった。ふと頭をよぎった。
「私、まだ彼と一度も手を繋いでない」
そこからは思考のループにまんまとはまった。この水膨れ、治るの?痕が残ったり、皮膚固くなったりするの?綺麗な手に戻れる?労災うんぬんよりも先にそういう考えが出てきてしまった。
そして休憩中に思わず送ってしまったメッセージが「今日忙しい?22時くらいに5分だけでも電話できないかな?」だった。

私は彼に慰めて欲しかった。出来ることなら直接会って、ハグして、頭ポンポンされながら「お仕事お疲れ。手、痛かったね。頑張ったね」と棒読みでも良いから、励ましの言葉を言ってもらいたかった。

電話越しの雨音も彼の声のトーンも心地よくて、ほぐれる緊張の糸

こんなご時世だし、それでなくともその日はお互い仕事ですぐに会えないことは分かっていたから、せめて電話で声を聞きたかった。返ってきたのは「出来ないこともないけど、明後日までバタバタしてるので、明後日の晩とかだと助かるかな?」「それか明日明後日の出勤前?」
ああ、忙しそうだな。本当は今日中に話がしたいんだけどな。でも、突然のワガママも困るだろうな。結局、折衷案の明日の出勤前になった。それが冒頭の、月曜日の朝10時だった。病院で水膨れの処置をしてもらった帰り道に、私は「今、大丈夫?」とメッセージを送ったのだった。

彼の声は直接会った時より少し低く聞こえた。電話越しに雨の音も聞こえる。彼は外にいるんだ。雨音も彼の声のトーンも心地良かった。
張りつめていた緊張の糸が解けるとはこういうことか、と実感した。速く不整脈を打っていた鼓動がゆっくりとしたテンポに落ち着いた。電話している間、彼は私の話をただただ真摯に頷きながら聞いてくれた。よく男性が女性にしがちな余計な解決案やアドバイスは一切無かった。
「話、聞いてくれてありがとうね。すごく元気湧いてきた」
「え、本当にこんなんで良いの?」
「うん。めっちゃ良かった。じゃあ今週もお互い平和に過ごそう」
たくさん話したように感じたが、電話を切ると4分30秒だった。

恋愛に安心を求める私と、向上心を求める彼はさようならをした

「○○ちゃんとはお付き合いできません」と彼からメッセージが来たのは、それから10日後だった。まだ私の右手には医療用の絆創膏がべったり貼られていた。あまりに突然のことで呆然とした。
さらに一週間後、彼から改めて話がしたいとのことで、夜に駅前のカフェで待ち合わせをした。そして、さようならをした。その頃には絆創膏は剥がれ、赤みは若干残っているものの、皮膚は無事に綺麗に再生していた。
彼は言った。「お互い尊敬して高め合える関係を築きたかった」と。
私は「あの日の電話、重かった?」と思い切って聞いてみた。
「ううん。全然。誰だって声聞きたいとか思う時、あるやん。それは頼られて嬉しかったよ?」
じゃあなんで?
「高望みしてる訳じゃないけど。謝ることじゃないんだけど、何かごめんね」

私は恋愛に安心を求めていた。彼は向上心を求めていた。
彼との出会いで学んだのは「後で」「いつか」「また今度」は通用しない。「今」が全てだ、ということ。あの時こうしてたら、と考えればキリがない。もうすっかり薄くなった右手の火傷の跡を見れば、雨の音と彼の低く落ち着いた声と、あの日の胸の痛みがチクッと蘇ってくる。
元々、人に頼ったり甘えたり助けを求めたりが苦手だけど、さらによく分からなくなってしまったのが本音だ。