人と会えない寂しさで行きついた、マッチングアプリ

世間はもはや「ステイホーム」なんて言葉を耳にすることも少ない。逆に「ウィズコロナ」なんて言葉もうまれて、もう共に生きていくしかなす術がなくなった。

特に最初の緊急事態宣言。皆が「うちで踊ろう」というような歌詞を歌っていたころ、わたしたちは何気ない日常の中に楽しみを見つけることに必死だった。
料理、芸術、ゲーム、スポーツ。それらを一通り味わったら、やってくるのはとにかく暇な時間。YouTubeやNetflixで終わる1日が続いた。

暇になる主な原因は、「不要不急の外出」ができないことと、それにより人に会えないことだと思う。
そして暇で暇で仕方ない生活の中で、どこか寂しさを感じた多くの男女は、マッチングアプリに行きついたんじゃないかと思う。
実際に登録者が増えたものもあったらしい。何を隠そうわたしもその1人だ。寂しさを埋めたい、そんな理由だった。

コロナに対する価値観の差は、恋愛に物を言った

外に出られない、人に会えない。だからこそ、アプリ内でのメッセージのやり取りが主になった。好きな音楽、映画、行ってみたい所、それらが少し重なっただけでワクワクした。

そして、このやり取りの中で、「コロナに対する価値観」が合うというのは個人的に結構分かれ目になった気がする。趣味が合うとか金銭感覚が似ているとかそういったことと同じように、コロナへの恐怖や警戒などの感覚の差は、恋愛に物を言った。

宣言中でも「大丈夫でしょ、飲み行こう」と誘う人もいたし、自分は外出しないくせに、「犬見にきてよ」「うちで飲もうよ」と自宅に誘い出す人もいた。すぐに「会おう」と言ってくる人は、どれも「なんだか自分とは合わないなあ」と感じさせた。
きっと多くの人は「会わないなら何でやり取りを続けるの?」と思うはずだ。わたしの感覚の方が少数だったのかもしれない。
けれど、あのときすぐに「会おう」というのは怖かったのだ。この事態を緊急事態と捉えていないその感覚に違和感があったのだ。

じゃあなぜアプリをするのか。
大変単純でわがままだとはおもうが、寂しいからだ。誰かとつながり、互いにやり取りを重ね、そこに楽しみを見出したかったのだ。そして、欲を言えばコロナへの感覚も、できれば自分と似たものであってほしかった。
いつか自分とそういう感覚まで同じ人に会えたら……。そう思えば思うほど、そんな人はなかなかおらず、うまく行かなかった。

コロナという「新しい物差し」が私たちをつなげた

そんな中で、長いことやり取りの続いた人がいた。
最初はどうなるかなんて未知だったが、こちらの気持ちを汲んでくれたのか、すぐに会おうとはならず、趣味の話、仕事の話、最近どう過ごしたかなど、会えない分やり取りは弾んだ。会う前から「この人だったらうまくいくかもしれない」と、そう思えた。

アプリで知り合った人と会う時は、いつも期待と不安や恐怖がある。「写真と別人だったら」「怖い人だったら」……。実際に目と目を合わせて「はじめまして」と互いに声を交わすまではそんな気持ちでばかりいる。
「うまくいくかもしれない」。これまで当てたことのない恋愛の勘、今回は珍しく当たった。

コロナは人のつながりを奪い、出会いも奪った恐ろしい病だと思う。だけど、コロナという「新しい物差し」が私たちをつなげたと思っている。
新しい価値観が生まれたとき、互いの感覚が重なるなんてとても難しいに決まっている。だからこそ、その感覚がたまたま重なったとき、大げさかもしれないが、ひとつの運命みたいなものを感じさせる。

この病の問題はあげていけばキリがないけれど、ある側面から見ればコロナは全てを奪ったわけではないのかもしれない。
コロナ禍の恋愛は、そんなことを教えてくれた気がする。