開店五分前、彼は眠そうな顔をして出勤する。おはようございます、と挨拶をすると、彼は聞こえるか聞こえないかくらいの返事をしたあと、視線をこちらに向ける。その視線は妙に鋭くて、私の心を突き刺してくるかのようだった。

よくシフトがかぶる鋭い視線の彼。関係の距離感が心地よかった

2020年10月、京都のとある酒屋でアルバイトを始めた。
大学1年生、オンライン授業で移住が遅れ、なかなか勤め先もないなかでようやく見つけたバイト先。長期バイトの経験がなかった私はどうにか仕事に慣れようと週に3回6時間と初めてにしてはまあまあな頻度でシフトに入っていた。

その時に特別よくシフトがかぶっていたのが、冒頭の鋭い視線の彼だった。
いつも深緑色のマスクをつけていて、より顔が暗い印象になっていたことをよく覚えている。週6でバイトに入りつつ大学にも通う限界生活を送っていたため、私は彼のことを心の中で社畜先輩と呼んでいた。

社畜先輩はいつの間にか私の教育係的ポジションになっていた。彼は全く甘いタイプではなく、ミスを連発し慌てふためく私にいつも厳しく指導をしてくれる。
「ミスをカバーすることならいくらでもできるけれど、後々できなくて困るのはミスした本人。できることが増えることはリスク回避に繋がるから」

そう言いつつしてくれる仕事の説明はどれも丁寧でわかりやすい。彼は甘さはないが、優しい人なのだろう。私には彼の厳しい優しさがとても好きだった。
いつも絡みにいっては冷たくあしらわれる、なんてことを繰り返した。その距離感が心地よかったのだ。

バイトを辞める報告をされたとき、恋以外とは説明しがたい感情を自覚

プライベートで会いにくいコロナ禍の環境を言い訳にして、一歩踏み込むことをせずにいた。尊敬も入り混じったその感情に恋と名付けるのが怖かったのだ。
しかし、少なくともあと1年はこんな感じでいられるだろうという空想は、思いのほかすぐに打ち砕かれる。バイトを始めて数カ月が経ったころ、社畜先輩にバイトをやめることを告げられた。

一瞬目の前が真っ暗になった。その瞬間、恋以外とは説明しがたい自分のなかの感情も自覚した。社畜先輩がバイトをやめるのは2カ月後。告げられてから1カ月は葛藤の日々だった。

プライベートでご飯に行ったこともない。職場が一緒なだけ、素の性格すら知らない。何ならマスクの下の顔すらお互いにわからないのだ。そこから、恋?告白?無謀にも程がある。
でもまだ友達ですらない。裏を返すと失うものも少ないということで。今更躊躇する必要もない、とご飯に誘う決心がついた。

うまくいけばそこからお互いを知ればいいし、うまくいかなければ彼からもらったアドバイスを胸にまたバイトを頑張るだけ。

思い切って誘った食事。バイトの先輩じゃなくなった彼は私の傍にいる

『当たって砕けろ』と開き直った私の心は大胆で、コロナ禍を理由に初手から2人きりでのご飯をこじつけた。
ご飯当日。仕事着以外で初めて社畜先輩に会う日。私は気合を入れておしゃれして、バイト初日の100倍くらいガチガチな状態で待ち合わせ場所に向かった。

他愛のない話をしながらご飯屋に向かい、頭が真っ白なまま料理を注文。いざ食事となった時にふと彼の顔を見る。
初めて見る社畜先輩の素顔をバレないように凝視していたけど、やっぱりバレてしまい笑われた。

その時の笑顔は、眠そうな出勤時からは想像もつかないくらい優しいものだった。
もしかしたら、私はずっとこの笑顔が見たかったのかもしれないな。
2021年7月現在、社畜先輩は社畜でもバイト先の先輩でもなくなったが、今も私のそばにいる。