中学2年生。憧れのスマートフォンを手にした。嬉しくて嬉しくて学校にも隠して持って行った。
画面上に映し出されるものが一本の指で次から次へと動く姿はまるで海の中を泳ぐ魚のようで心が舞い上がった。

家に帰っても友達と連絡がとれる!家の電話にかけなくても友達と電話ができる!外で動画が見れる!音楽が聞ける!と、とにかく色んなことができて楽しかった。数年後にはTwitter、InstagramなどのSNSが流行り出して空いた時間を見つけては毎日いろんな情報を漁った。Instagramを始めた時は自己表現を気軽にできることに感動し、友達と遊んだ時の写真やお気に入りの靴、景色などを投稿した。自分はこういうのが好きなんだということを全面に伝えようとしていた気がする。
最初はよかった、ただ楽しかった。

周りから見た自分の姿を気にして、Instagramに命をかけていた

でも高校生になって楽しいが業務になった。アプリを開けば、原宿系、モノトーン系、ベージュ系、など様々な系統でまとまるようになった。投稿にも統一感を求められ、系統のどれかに属していないといけないと仲間外れにされるような雰囲気を感じた。それからわたしも統一感を気にするようになり、その系統に合わせて物や服を自然に買うようになった。

自分はそれらが好きなんだと、その時は思っていた。
周りの友達も統一感のために、投稿してはアーカイブに写して加工し直したりして統一感があるを確認していた。だからか、人のインスタを見るとその人がどういう人がどういうものが好きかをだいたい想像できる。
そう、私たちは周りから見た自分の姿を気にして、とにかくInstagramに命をかけていた。

あれ、私には胸を張って好きだと言えるものはあるのかな

ある日祖母が言った。
「わたしね、このコート大好きなの」
このひとことで私は目が覚めた。

あれ、私には胸を張って好きだと言えるものはあるのかな。急に不安になった。
そして自分の好きなものをひたすらにかき集めようとした。でも、今の自分には探しても探しても好きなものが出てこなかった。私の好きなものって何なんだろう。スマートフォンを持った中学2年生から現在まで私は何が好きだったのか全く分からなくなった。振り返ってみれば小学生の頃の私は手芸、コラージュ、カメラ、ピアノなど夢中になれる趣味があった。好きな服や好きな色、好きな雑貨、好きな雑誌、好きなアイドルなど"わたし"の好きなもので満たされていた。トキメキと共に私のもとにやってきた好きなものたちは紛れもなく私の好きなものたちだった。

だけど、今の自分にはそれがないってことに気づいた。好きな服や好きな店、好きな色、確かにあるけど心から好きかって言われたらそうでもない。その時思った。あれ、あたし空っぽじゃん。私って何なんだ?誰なんだ?自分が自分じゃないと思った。

そしてハッとした。"これまでの私"はInstagramで作り上げた"もうひとりの私"だということ。

SNSに投稿しなくたって私の好きなものはここにある

私の本当に好きなものたちは、次々と溢れかえる誰かの好きなものの波にのまれて見失っていたのである。あの人が好きなものだから、私も好き。あの人が持ってる物を手に入れたことが嬉しい。なんだかなにかに取り憑かれているようだった。

これに気づいて私は一度SNSを全て削除した。スッキリしたと同時に今まで費やしてきた時間は何だったんだと思った。SNSと離れて、本当に好きな友達が誰なのかハッキリしたり、やってみたかったギターやカメラに挑戦したりと、私の心のときめくままにたくさんのことに触れた。SNSに投稿しなくたって私の好きなものはここにある。私には私の好きなものがあるんだ!とやっと偽物の自分ではなくて本当の私が戻ってきたと感じた。

いつか祖母と同じ歳になっても、自分の好きなものを恥じないで堂々と好き!と言える人になりたい。