私たちは、何の気なしに「元気?」と声をかけ合う。
「元気だよ」と心の底から答えることもあれば、「元気だよ」と相手に探りを入れられる面倒を避けたいがために嘘をつくこともある。
そしてストレス社会において、残念ながら前者よりも後者の「元気だよ」がより多く発されているのではないかと思う。
心も体もあまり元気とは感じられないけど、医学的にみたら元気な私
現に、私もたったいま「元気?」と聞かれたら、後者の意味合いで「元気だよ」と答えるだろう。
平日はフルタイムで目の前の命と向き合い、神経をすり減らし続けている。休日も最低1日は外来に駆り出され、患者さんからのお小言をかいくぐりながら椅子に座り続けている。
歳を重ねるごとに仕事の重圧は増すばかりなのに、体力は衰えるばかりだ。
慢性的な疲労とストレスを抱え、心も体もあまり「元気」だとは感じられない。
そして、このように感じているのは私だけではなく、社会で体を張って懸命に生きている誰もが同じだろう。
ところが、医学的に見たら、少なくとも私は「元気」だ。
血圧、心拍数、呼吸回数、体温は全て正常範囲内。
ついこの間受けた職場の健康診断でも、採血結果は何も引っかかっていなかった。
嫌々とは言え、毎日問題なく出勤できている。
紛うことなき健康体だ。
自分の体のことをいちばん分かっているのは自分。その自分があまり「元気」と感じられないのに、医学的に「元気」と断定されてしまうのは、何だか納得がいかない。
定義を調べると、「元気」という言葉に納得できない理由が分かった
そもそも、「元気」って何だろう。
「元気」の定義を辞書で調べてみたら、「①心身の活動の源となる力。②体の調子がよく、健康であること。また、そのさま」と書いてあった。
なるほど。
「元気」という言葉が納得できないのは、②の定義には当てはまっても①の定義がしっくり来ないからかも知れないな、と思った。
「心身の活動の源」の根本となる基本的な大原則は、誰もが重々承知だろう。
良質な睡眠、バランスの取れた食事、適度な運動。
私は医者なので、それぞれを掘り下げてうんちくを垂れ流すこともできるし、実践するよう心がけている。
でも、こういうありきたりのものでは、私たちは納得できない。
特にこのコロナ禍では、エンターテインメントなど外的刺激に乏しい毎日だ。
東京では4回も「緊急事態宣言」が出され、行動が制限され、外食もできずお酒も飲めない日々。
真面目な国民性が災いし、みんな辛抱強くこの情勢を我慢していることだろう。
何を活力にすればいいか、私を含め途方に暮れている人が多いのではないだろうか。
元気には思いやりが含まれているから、今日も積極的に唱えていこう
ここで登場するのが、「元気」という言葉だ。
挨拶として、日常会話として。何気なく使う「元気」には、言葉の持つ本来の意味だけではないものも含まれていると私は考えている。
それは、思いやりだ。
相手に向けて発する「元気?」という気遣いと、相手に向けて発する「元気だよ」という配慮。
おざなりでもいい、形式的でもいい。
現状に反していようとも、「元気」という言葉が発されることで、そこには相手を思いやる気持ちが生まれている。
そして、その思いやりを感じ取ることで、あたかも自分も元気であるかのように、元気になったかのように感じられる。
「言霊」という言葉があるが、まさに「元気」という言葉がこれだろう。
今この瞬間も、挨拶として、形式として、どこかで「元気?」「元気だよ」という言葉が飛び交っているだろう。
そして「元気」という言葉が発されるたびに、あたたかい思いやりに包まれているだろう。
「元気」という言葉の魔法が世界中に広がり、本当に「元気」になれますように。
私も、今日も積極的に唱えていこう。
「元気だよ」と。