先日、卒業してから5年ぶりほど、いやそれ以上ぶりだったような気がする。随分とご無沙汰していた友人にひょんなことから会う機会があった。中学高校と同じ学舎で、しかも同じ部活だったが、卒業してから疎遠になってしまっていた。
6年間の女子校生活で「失ったものは多かった」と嘆くように…
私は所謂「都会っ子」だ。中学高校と都内の女子校に6年間、大変お世話になった。
大学から共学に進学した時には、周りの女の子の髪型やら服装やらに向けた気の届き様が素晴らしく長けていて、心底「女子校で失ったものは多かった……」と女子校を選んだ自分の過去を嘆いたものだ。
しかし、そんな大学入学時から更に時を経た今、「昔がこうだったから私の今はこうだ」なんて遠い過去と今の自分の姿をわざわざ結びつけて考えることなんて、殆どしなくなった。
口を開けば「この仕事をあとどのくらい続けようか」「結婚のタイミングはいつがいいんだろう」「私はこの先何がしたんだろう」なんて未来に向けた不安を口にすることばかりだ。
勿論、私もその1人で、20代折り返しに差し掛かっている今、絶賛悩みまくっているところだ。
話を戻すが、そんな時に昔の友達に会うというのはとても不思議な感覚だ。未来に向けられた矢印が物凄い勢いで過去に方向転換するわけだ。
S N Sでの近況拡散がこれだけされているにも関わらず、あまりにも久しぶりだったので、お互いの近況を殆ど知らなくて「今、どんな仕事してるの?」なんていう質問をしてしまうほどだった。
ところが、やっぱり過去を共に過ごした相手だ。「今」にはそんなに興味はなくて、気付けば「昔」の話になっていた。
どう見られるかを気にしない女子校だから、大事にできた自分の意見
「あの思春期真っ只中の、人と比較しては自分のできないことを探して落ち込んでしまう様な時に女子校に通っていて本当に良かったよね。だから、今の私たちがいるよね」
彼女から不意に出たそんな言葉が、過去と今の私たちを明るく照らした気がした。
「10代って意見を持つ練習をする時じゃない。もし周りに男の子がいて、どう見られるとか常に考えたり、クラスを跨いで耳にする噂に翻弄されるのって、自分の意見や大事にしたいことが削がれると思うんだよね」
確かにそうだ。勿論、女子校で過ごした時に他者の目が全く気にならなかったわけではない。それでも1人1人がしっかり自分に向いていた気がする。
合唱コンクールでも体育祭でも何かと行事に全力で臨んでは、「私たちが1番なんだ」と声を大にして叫んでいたし、相手が先生だからと言って怯むことなく「私はこう思う」と自分の意見を発言していた。そんな風にして、「私たちって、やっぱり最高じゃない!」と手を叩いて大声で笑い合っていたのだった。
いつの間にかS N Sが学生の時以上に手元にあり、社会からや周りの人間からの矢印を一層強く感じるこの頃だからこそ、自分という名の手綱をしっかり握りしめる必要があるのかもしれない。
私たちの人生に答えなんてない。「最高」と言える最善の選択を
6年間で得たことがそれぞれの体にちゃんと残っていて、それを共に思い出して励まし合える仲間がいることが、あまりにも奇跡のような気がして心がいっぱいになった。
そうだ、あの時なくしたものなんて本当はなかったんだ。私が元から持っている石をしっかり磨いていくことを忘れかけていただけだったんだ。
友人と別れた後、「中学高校と笑い合った友達に顔向けできない、そんな生き方はしたくないよね」とメッセージが送られてきた。
本当にそうだ。私たちの人生に答えなんてない。最高!と堂々と周りに言うことができれば、きっとそれが最善の選択なのだ。