高校生の頃、誰もいない教室のベランダに足を踏み入れた。
クラスメイトらは移動教室でひとりもいない。笑い声も話し声もしない……ただ机が並べられた四角い箱を一瞥し、私は奥行きの狭いベランダを一歩、二歩と踏みしめ、そして空中とベランダを遮る柵を乗り越えて手すり部分に仁王立ちした。

別にいじめられている訳ではない。
進路に迷いがあるわけでもない。
何か直面している問題があるわけでもない。
けれど私はふいに少し先の未来が怖くなったり、自分には果たして本当に価値があるのだろうか、生きている意味はなんなのだろう……と水の張った洗面器に顔を押し付けられて抗えないような息苦しさを感じて自分の存在を消したくなる。
華でいうと、枯れる直前の生気を失い、死を待つだけのような状態になる。

思春期を迎えたころから定期的に私を襲う不安。
この不安の解消がわからず、たまに私はこうして教室のベランダの柵を越える。
当然あと一歩は踏み出せない。
けれどもそうやって「生」を痛いくらいにひりひりと見つめる瞬間だけが唯一、その不安から逃れられる瞬間だった。

仕事、恋愛、どう生きるか。世間が作った幸せの定義に力を奪われる

その不安は大人になった今でも私を襲う。私が私である力を吸い取り、そして枯らそうとしてくる。
その不安の正体は分からない。ただ年々強くなっているのは事実だ。

高校生の頃は「高校生はこうする」というプラン、はたまたレールのようなものがぼんやりとだけれど見えていた。
けれども大人になるとそれを自分で選ばなくてはならない。仕事、恋愛、どう生きるか。
恐ろしいことに世間には年齢に沿ってこの年齢でこうなら幸せ、こうじゃないなら幸せではないという定義がはびこっている。
〇才までに結婚していれば幸せ、そうじゃないと不幸せ、〇才までに子供がいれば幸せ、そうじゃないと不幸せ。
女は女らしく。普通。女の幸せは結婚すること子供を産むこと家庭を持つこと……。
それだけが全てではないという声はあるけれど、世間が作った幸せの定義は未だに大きな力を持ち、日に日に私の命を吸い取っていく。

次々と慣れ親しんだ友達の苗字は奪われ、私の友達は死んでしまったんではと錯覚する。
変わらない声、化粧で飾られたけれどすっぴんでセーラー服を纏っていた日々の面影のある顔、けれども違う苗字で返事をするのだから。
会社で何気なく同性の上司・同僚が口にする。
「彼氏はいるの?」「早く子供は産んでおいたほうがいいよ。遅いと大変だから。育児は体力いるからね」
実家からくる着信。
「〇〇さんの××ちゃん赤ちゃん産まれたんだって。いいなあ、孫。早く産んでよ」という留守番メッセージに死にたい。消えてしまいたい。私って何なんだろう、普通になれない私はおかしいのだろうか……。

枯れかけの私に、プロレスは溢れんばかりの水を注いでくれる

心が殺され、枯らされそうになる時……私は定時であがり、家に帰る方向とは逆の電車に飛び込む。
平日夕方の上り電車の静けさは私を優越感に浸らせる、。誘ってくれ、銀色に黄色のラインが輝く列車。

辿り着いたのは水道橋。駅から続く長い坂道を、ヒール突き刺しながら駆ける、駆ける、駆ける。そして坂を駆け上り、飲食店を横目に今度は段差がもどかしいくらいの速さで階段を駆け下りる。
目の前にそびえるのは後楽園ホール。
深く息を吸って吐く。胸の中に残る死を誘う不安が、しこりのように息を吸いづらくさせている、。息を吐く時には何故か涙まで出そうになった。
下唇を噛み、ゆっくりとチケット販売窓口でチケットを買い、中へ入る。エレベーターが開き会場の中へ足を踏み入れる。買ったのは南側の席。
細く長い階段を上がりオレンジ色の椅子へ、しおれた体を沈めると、目の前に広がるのは……正方形の四隅に柱が立ち、三本の黒く長いロープが張り巡らされている……リングだ。

プロレスは私にとっては水だ。
生きていく中でぶつかる生きづらさ。自分を普通に矯正……すれば済むことだけれど、どうしても自分を変えたくない。
けれども自分が自分らしくあればある程不安に圧し潰され、生きていくことが嫌になる……私は枯らされる。一度枯れて生きやすい時代にまた芽吹けばいいのではないかと転生の妄想までしてしまう。
けれども枯れかけの私に、プロレスは溢れんばかりの水を注いでくれる。

プロレスと出会い、不安がすうっと消えるのが分かった

プロレスとの出会いは大学生。
偶然深夜にやっていたプロレスの番組がきっかけだった。
人間と人間がこんなにも激しくぶつかりあっている。喧嘩みたい。けれども試合が終われば握手なんてしちゃっている。これは何?

私はいつも自分を押し殺して、当たり障りのない言葉で自分を繕ってきた。本音は隠すもの、本当の自分はいらないもの、建前や空気を読んだ舌触りのいい言葉だけを選んで語っていた。そうしないと生きてはいけないものだと。
けれどもリングの上のプロレスラーは建前も空気を読むなんてこともない。ただ目の前の相手に真摯にぶつかって技を打ち込む。
そして撃ち込まれた方は避けてしまえばいいのに、避けることなく技を逃げずに受ける、受けて受けて、自分の技を繰り出す。

そんな自分とは真逆の世界は私を強く惹きつけた。テレビ画面越しに見ていたのに私は自分を侵す不安がすうっと消えるのが分かった。これがプロレスによるものか分からなくて、初めて生で試合を観戦した時、やっと確信を持てた。
これから生きていく中で、私は私を枯れさせない為にこのリングから注がれる水が必要だと。あの教室のベランダの柵を乗り越えた時に感じた、水よりも潤いも量も違う水が、あの人と人とぶつかる音が響く正方形から湧いているのだと。

ゴングを打つ音が私の鼓膜を震わせる。
リングアナウンサーの滑舌の良い言葉が会場を満たす。
名前を呼ばれた選手が現れてリングへと上がる。私は高鳴る、ゴングよりも歓声よりもうるさい心臓の音を胸に手を当て感じながら、また深く息を吸って吐く。さっきよりもずっと呼吸がしやすい。
試合がはじまる。私は激しく組み合う選手を見つめながら思う、もしプロレスと出会っていなかったら枯らされて……つまり、死んでしまっていたんじゃないかと。
生きづらいけれど、きっと死にたいわけではなかった、生きやすく生きたかった私は今日もここでプロレスの生きる力を浴びている。