私が女子高出身だと言った時、友人の男子大生に「温室育ちだね」と言われたことが、今も胸に引っかかっている。
私は「温室育ち」という言葉を聞くのは初めてだったが調べてみると、「苦労知らず」とか「箱入り娘」といった言葉が並んでいた。これらは私の高校生活とは大きくかけ離れた言葉ばかりだった。

上級生の堂々とした姿。3年後、自分もこんな女性になっていたい

私が女子高進学を視野に入れたきっかけは消極的な理由によるもので、苦手な男子生徒に「同じ高校に行こう」と言われたことだった。しかし結果的には、女子高進学も選択肢に入れたことで、そのコースにさえ入れば全員が1年間留学できる、という私の人生を大きく変える学校を見つけることができた。

それまで、自分が留学をするなんて考えたこともなかったが、オープンキャンパスで上級生が堂々と英語でのプレゼンテーションを行う凛々しい姿を見てから、私はその女子高にしか行きたくなくなった。3年後、自分もこんな女性になっていたいと思えるようなロールモデルを見つけられたことが嬉しかった。

中学校で進路についての三者面談があった。私の担任だった30代の女性英語教師は、母に「弟さんもいるんですよね。もし弟さんも留学したいと言ったらどうするつもりですか。2人とも留学させられるんですか」と言い、どちらかを留学させるなら弟の方だろ、とでも言いたいようだった。今思い出しても腹立たしい。
しかしその時、私は担任教師の女性蔑視的発言よりも、温厚な母が静かに怒っているのがわかり、驚いていた。
それ以降、母だけが「本当はママも留学してみたかったんだ」と、私の味方でいてくれた。

母のおかげで、私の女子高進学の夢は叶った。留学が待ちきれない私に、周りの大人は、「女の子なのに勇気があるよね」と言いにきた。
女子高に入ってから、クラスメイトも同じような言われ方をしてきたという話をよく聞いた。どうやらそのコースには、周りから「女の子なのに~」と言われてきた、日本での常識からは「逸脱した」女の子たちが集まっていたようだった。

似た者同士の彼女たちとは登校初日から意気投合した。今もその関係は変わっていない。
そこでは、容姿について、あーだこーだと点数をつけられることもなかったし、女子力を磨こう!といった話も出なかった。生理でお腹が痛いのに痛くないふりをしなくてもいいし、急いでいれば階段を1段飛ばしで駆け上がることもできた。
そして、「女の子なのに~」という先生はいなかった。

外国語の壁、人種差別。挫折を経て少しずつ成長していった

留学先の高校で単位を揃えるのはもちろん、16歳の子どもが初めて親元を離れて外国で生活するためには、勉強しなければいけないことが無限にあった。家と学校の往復だけの、文字通り英語漬けの1年間はあっという間に過ぎた。
とてもしんどいスケジュールだったはずなのに、充実していたことしか思い出せないのは不思議だ。
そしてついに、初めてつくったピカピカのパスポートと一緒に、私は「いってきます!」と元気に地元の空港からニュージーランドへと飛び立った。

しかし、私のホームステイ初日は、ホストマザーの「兄弟いる?」という質問を4回聞き直した挙げ句に、siblingsの意味がわからず、スペルを電子辞書に打ち込んでもらうようお願いするが、それすら全然通じない、というひどいスタートだった。
私は「じゃ、おやすみなさい」と自室に入り、やっと1人になれた時、せっかく留学させてもらったのに、もう帰りたいと思っている自分が情けなくて、声を殺して泣いた。

朝、2歳の子どもに起こされた。その子の英語が流暢で驚いたことは今では笑える思い出だが、当時の私は大きな挫折感を感じた。
外国語の壁はやはり高かったし、慣れない人種差別も経験した。1人で乗り越えなければいけない困難が山ほどあった。
しかし、あんなに応援してくれた母に帰りたいなんて絶対に言いたくなくて、お土産話をたくさん持って帰るんだ、といつも自分で自分を鼓舞した。

数え切れないほどの挫折を経て私は少しずつ、問題が起きても動じないようになっていった。だんだん自信がつくと、発音が少し間違っていようが私の英語は聞き手に通じるようになっていった。
帰国する頃には、「帰りたくない」と言ってホストファミリーを困らせてしまうほど、私はニュージーランドでの生活が気に入っていた。帰国しなければいけないのは残念だった反面、以前よりタフになれている、と自身の成長を感じられたことがとても誇らしくもあった。
帰国すると、私が心も身体もたくましくなって(10キロ太ったが気にしていなかった)、別人のようだと、家族も先生たちも驚いていた。

ある時、私は英語でのスピーチを終えて拍手をもらった時、ふと、なりたかった自分になれていることに気がついた。
3年前に憧れた先輩たちと、私は同じ場所に立つことができていた。この時の心が震えた感覚は、今も忘れられない。

私は「箱入り娘」じゃない。でも女子高は「温室」でもあった

これが私の女子高生活だ。
私は自分が「苦労知らず」だとは思わない。私は「苦労は買ってでもしろ」という言葉が好きなほどだ。
私は高校での3年間、たくさん転んでたくさん起き上がったので、また挫折しても、それが永遠に続くわけではないことを知っている。私の両親は私がタフで、チャレンジ精神旺盛な人間だと知っていて、「箱入り娘」だとは思っていない。

男子大生がどんな高校生活を送ったのかは知らないが、あの時、彼に、私はあなたが思うような「苦労知らず」の「箱入り娘」ではないと言いたかったと思っている。
しかし一方で、女子高の外に出てみて、確かに女子高は「温室」だったのかもしれないとも思う。女子高という「温室」の中にいれば、自分が女性だと意識させられることはない。

例えば料理ができなくても、「女の子なのに~」ではなく、「もう高校生なのに~」と、女性というよりは人間として扱われることに慣れてしまう。
「こういう髪型・メイク・ファッションの方が男ウケがいい」と、男性から好かれるかどうか、を基準に物事を決めることを忘れてしまう。いつも自分が好きかどうか、やりたいかどうか、が基準で、「好き」を磨いている子が一目置かれるのが女子高だったからだ。

一旦、男性中心主義社会と距離を置いて、人間として扱われることが当たり前になってしまうと、その「温室」から現実の世界に出た時、人一倍、ジェンダー差別を敏感にキャッチしてしまう。そのため、女子高生活を経験する前よりも、余計に傷つくようになった、生きづらくなったと感じる女子高出身者は少なくないだろう。

「温室」から出た途端、急に社会の周辺に追いやられ、自分の意見ではなく社会規範をわきまえるよう期待されていることを知る。すっぴんは「マナー違反」で、女性は若ければ若いほど価値がある、と信じさせられる。
こんな「小さい」ことに、いちいち違和感を感じてしまうようになるのは、やはり女子高という「温室」で育った弊害なのだろう。
それでも、「温室」でつくられた今の自分が、私はそこそこ好きだ。
このような「小さな」自己肯定感も、「温室」で培われたものなのだが。