自分で言うと笑えてくるが、わたしは自己肯定感の塊みたいな人間だ。でも本当にそうなので、このマインドがどこからきたのか考えてみたい。

人の共感を得られなくても、自分が好きなものは「自信」を持っている

1つは、母親によく褒められたことが影響しているように思う。10代のわたしは反抗期の高止まり状態が長引いて、ほとんどの記憶では当然のように怒られていた。

しかし小さい頃から、文章を書くことや、音楽や本などカルチャーを積極的に吸収したことや、良い友達がいることなど、いろいろな部分で褒められてきた。今でも、わたしが書いた文章を褒めてくれるし、わたしが勧めた映画や漫画や音楽を喜んで受け取ってくれる。

音楽や映画は、わたしが生きていく中で特に大切にしているものだ。これまで数えきれないほどのライブに行ったし、映画も観続けてきた。自分の意思で選んできたそれらのカルチャーは、自分自身を肯定する要素の1つでもある。

わたしが好きなものは全て、自信を持って「良い」と言えるものだ。多くの人の共感を得られなくても、否定されたとしても、揺らぐことはない。わたしが大切にしているものを、いつでも大切にしてくれるのがわたしの母親だ。

常に大好きな友達がいることは、自分自身を好きな直接的な理由

もう1つは、常に大好きな友達がいることだろう。わたしは昔から仲良くしたい人とだけ仲良くしてきた。一緒にいて嫌な思いをする人や、自分らしくいられない人とは付き合わない、と決めている。

たまにしか連絡を取らなくても、ほとんど会わなくても、今わたしが思い浮かべる全ての友達のことが本当に大好きだ。たとえ他者から欠点とされる面があったとしても、その人のユニークな個性として愛している。

久しぶりに会った友達と話すと、「やっぱりわたしは,、この人のことが好きだな」と勝手に納得するのだ。好きなところがあり過ぎて、友達についてレポートにまとめたくなったりする。

「あなたはこんなに魅力的だよ」と伝えたくてしょうがない。こんなに好きな人たちが周りにいることは、わたしがわたしを好きな直接的な理由になる。

ネガティブなことを考えずに、自分ができると感じていることはできる

あとは何だろう。できないことや、やりたくないことに意識を向けないのもそうだろう。その代わり、できることに対しては自信を持っている。
自分の個性を優劣で考えて憂いたり、嘆いたりするネガティブさを持っていないので、他人がどうとかは関係ない。
わたしができると感じていることはできるのだ。それを評価するのも、他人じゃなくてわたしだ。

やりたくないこともやらない。「耐えろ」とか「苦労しろ」とか言ってくる人は苦手だ。関わってこなかった。
いろんなことに耐えてこなかったけど、わたしは結構逞しく生きている。

自分の伝えたい思いや考えを、文章にできるのもその1つだろうか。
表現しなかったこともたくさんあるが、頭の中では、自分の意思がしっかりと言葉になっている。もちろん間違えることはあるし、後悔することもあるけれど、自分の軸に従って行動し、発言することを躊躇いたくないと思っている。

現在のわたしが持っている価値観や倫理観は、考え続けたプロセスを解りやすく示している。自分の思考の道筋を捉えられるのは、自分の心を守ることにも役立つ。傷つくことがあっても、それを修復する言葉や考え方が自分の中にある。
これらはわたしが自覚する、わたしの強さである。

わたしが、わたしたちが生きているのは、善人の顔をした人が、平気で他人を貶めたり痛めつけたりする世界だ。他人に認められることなんかより、わたし自身が認めて信じ続けることの方が3億倍大切で意味のあることだと思う。
この最強の自己肯定感は、何よりの元気の源だ。