「黒人さんでもかわいくなれる」
「アフリカ系、 アジア系さんのためのコンプレックス解消メイク」
こんな文言が雑誌やインターネット記事に載っていたら、 たちまち大炎上するだろう。「白人でないとかわいくないのか」 「人種差別だ」と批判されるに違いない。
では、こちらはどうだろうか。
「一重さんでもかわいくなれる」
「一重、 奥二重さんのためのコンプレックス解消メイク」
ファッション誌やネット記事、 化粧品の広告などで何度も目にしたことのある言葉だ。 背景には、「ぱっちりした二重まぶたの目=優」「 一重まぶたの小さな目=劣」という価値観がある。

一重は劣っていると身体的特徴に優劣をつけることは、人種差別と同じ

私は一重まぶただ。自分ではそれが劣ったものとは思っていなかったが、周りは違った。
小学校高学年くらいから、二重まぶたの同級生が「私のほうがかわいい」「早くアイプチにしたほうがいいよ」などという言葉を浴びせてきた。身体的特徴に優劣を付けているという意味で、 人種差別と同じぐらいひどいことだと思う。
この考えに、次のような反論があると思う。
「肌の色は変えられないけれど、 目の形はアイプチや化粧で大きく見せることができる。 努力することができるのだから、 すればいい」
私がこの「努力すればいい」 という考えに賛同できないのは、 それが 「小さい目は大きい目より劣っている」という価値観に基づいているからだ。黒人の方に「あなたは白人にはなれないけれど、少しでも肌を白く見せる努力をすべきだ」 と言うのと同じぐらい失礼な話だと思う。
ではなぜ、人種差別反対の運動は起こるのに、一重差別反対の運動が起こらないのか。それは既存の美意識に従うことが楽だからだと思う。

就活で泣く泣く始めた化粧は、今まであり得なかった事態を作り出した

私は大学3年のときに就職活動を始めるまで、ほとんど化粧をしたことがなかった。「ぱっちりとした目」という画一的な 「あるべき女性像」に迎合することに抵抗があったからだ。
しかし、就活のマニュアルには「化粧はマナー」「目力が大事」などと書かれている。私の目をばかにしてきた人たちの価値観に屈するようで悔しかったが、 背に腹は変えられないとの思いから、泣きそうになりながら化粧をしたのを覚えている。
化粧をして気付いたのは、 社会は 「努カ」 をする人には温かいということだった。
見知らぬ男性が私の落とした書類を拾ってくれるなど、 それまでではあり得なかった事態に何度か遭遇した。「大きい目は小さい目より優れている」という価値観に追従すれば、この社会では格段に生きやすいのではと感じた。

目元強調をアドバイスされても、その点に関しては「努力」しない

社会人8年目となった現在、仕事の際は化粧をしているが、目の縦幅を強調するのには依然として抵抗がある。 目力を強調しなくても清潔感を保っていれば社会から冷たくされないと気付き、現在はマスカラを付けずに出勤することが多い。
知人から 「もっと目元を強調すべきだ」などと指摘をされることもあるが、その点に関しては 「努力」しないようにしている。
「努力」してしまえば、「一重まぶたは二重まぶたより劣っている」という価値観を受け入れ、助長し、 ひいては一重まぶたの子どもたちがいじめられる構図を再生産することにつながりかねないような気がするからだ。
近年、ファッション業界でもダイバーシティの概念が広がり、欧米の雑誌やブランド物の広告で有色人種のモデルが多く登場するようになったことは心強い。
一方で、日本では女性アイドルやミスコン出場者は二重まぶたの方ばかりで、 それを見るたびに「やはり一重は受け入れられない存在なのか」と悲しくなることが多い。
人種差別と同じように「一重差別」 も間違ったものだという認識が広がり、目の形に関わらず人々が活躍できる日本社会になってほしい。