低い鼻に分厚い唇。
三白眼の女が恨めしそうに私を見つめる。

小さく溜息をつき、鏡から目を離す。
私は鏡を見るのが嫌いだ。
自分の顔で好きなところなんて1つもない。

小さい頃から自分の顔に劣等感を抱いて生きてきた。
鏡を見るのが嫌で嫌で、そうしてとうとう鏡をあまり見なくなってしまった。
ブスが見た目をちょっと弄ったところで大して変わらないだろうと、いじけてコンプレックスから目を背けたのだ。

そんな私だったが、ある言葉と出会って、鏡をしっかり見られるようになった。
ありのままの自分を受け入れてレット・イット・ゴーしたとかそういう綺麗なお話ではない。
私は相変わらずブスだし、自分の顔はこれっぽっちも好きじゃない。今も見て気分の良いものではない。
ただ、いじけたブスではなく真っ直ぐ自分を見返すブスがそこにいる。
これは私がコンプレックスとの向き合い方を教えられたお話だ。

「もっと美人に産んでくれたら」。振られた悔しさから母に八つ当たり

「もっと美人に産んでくれたらよかったのに」
ある日、私は母に八つ当たりした。
好きになった人に好きになってもらえなかった。
顔のせいだったかどうかは今となっては分からないが、振られた悔しさをコンプレックスへの憤りに転嫁させていた。
苦労して産んだ娘にこんな恨言を吐かれて、母の心境は如何許りだったろう。
母はちょっと悲しそうな顔をした。
そして少し考え込んだ後、毅然と「確かに、親の欲目を抜いたらあんたはお世辞にも美人とは言えない」と言い放った。

甘い慰めを期待していた私はびっくりした。
落ち込んでいるところに事実を突きつけられてカッカした私は、ほれみろお前のせいじゃないかと、さらに酷いことを言おうした。
そんな私を遮って、でもと母は続けた。
「でも見られないほどの不細工でもない。あんたの顔は、良くも悪くもない。見た目で判断されずに中身を見てもらえるええ顔なんよ。だから、中身を見られていると思って生きなさい」
「生き方は顔に出る。20歳までの顔は親のせいにしていいけど、20歳からの顔は自分のせいだから、美人になれるように凛としなさい」

コンプレックスは諦めて卑下するものから、努力で変えられるものへ

この言葉を受けてから、顔のコンプレックスはどうしようもないと諦めて卑下するだけのものから、自分の努力次第で変えられるものへと変わった。
誰のせいにもできなくなり、むしろ厳しい考えかもしれない。
それに考えが変わっても顔はブスのままで、状況はなんら好転していない。
しかしブスでも生き方次第で、いつか美人と言えるような良い顔になれるかもしれないという希望は私に前を向かせた。

そして今、20歳を少しともう少し過ぎた。
クソガキ時代は苦し紛れの綺麗事だと吐き捨てていたが、歳を経た今、確かに性格が顔に出る事例はいくつか思い当たる。
顔を見ればその人の性格はだいたい伺えるし、良い生き方をしてる人は顔のパーツの良し悪しなど関係なく、良い顔をしている。

鏡を見て呪詛を吐く退廃的な時間が、生き方を見直す時間に変わった

低い鼻に分厚い唇。
三白眼の女と目が合う。
まだ私は私の顔が嫌いだ。
人はそう簡単に変われない。
名言を聞いて成功できるなら世の中みんなスティーブ・ジョブズだ。
すぐ自虐ネタをしてしまうし、卑屈な性格はまだ直せていない。
凛とした女性にはまだまだ程遠い。

でも鏡を見るたびに背筋が伸びるようになった。
じっと顔を見つめる。
1日の終わりに鏡を見る度に、美人になれるような生き方を出来ているかどうか振り返るようになった。
鏡を見る時間が呪詛を吐く無意味で退廃的な時間から、生き方を見直す生産的な時間に変わったのだ。

あの時、その場凌ぎの慰めではなく、生き方を変えるような発言を咄嗟にしてくれた母を心から尊敬する。
いつか私も母のような凛とした美人になれるだろうか。
いつか自分の顔を好きになれるだろうか、と今日も鏡に問いかける。