些細なことで怒る母を見て育った私は、いつの間にか怒らない子になった

怒っている人をみると、どこでこの人は間違えてしまったのだろうと思う。
生まれたての赤ちゃんは、怒っていない。
ムカつくとか腹立つとか、そんな感情は知らない。ムカつく基準も腹が立つ基準も怒る基準もかなり人それぞれで、それが私にはすごくすごく厄介だ。
ちなみに叱ると怒るは違うと思う。

お叱りはシュンとして受け入れる(ときに自分の意にそまないときはやはり怒ってる人として認識して、この人が、なに間違えちゃったのかなー、なんて考える)。

母親がめちゃくちゃ怒る人だった。それはもうめちゃくちゃに。病的に。激昂とはこのことかとおもうような怒り方をする。些細な事で。
しかも他の人からしたらなんで怒っているのか分からない。彼女には、色んな条件が見えていて、怒る基準が多方面に蜘蛛の巣のように張り巡らされていたような印象だった。

私は怒らない子になった。
すごくすごく、ものすごく小さなことでびっくりするほど怒る母親が本当に嫌だったから、同じようには絶対ならない、母親みたいな大人には絶対にならないと、小学校低学年のときには心に強く誓っていた。

ADHDの診断を出された時は驚かなくて、むしろ良かったとも思った

ところで、私はADHDの診断がついている。それも最近のことだ。服薬でのコントロールが始まった。
ADHDといってもいろんな型があって、私は小学校中学校と、どちらかというとしっかりしている子だった。ただ、よく、おーい、と言われるなと思ってた。そんなつもりじゃないのに。あと、よくいろんなことについて考える子だったと思う。頭の中のADHDで、結果ぼんやりしてしまうらしい。

会話の間合いがよく分からなくなって、心のシャッターをよく閉めてしまう。そのときは大体、眠い?とか大丈夫?とか聞かれる。
母親が怒り出すと、よくシャッターを閉めた。取り合っても仕方ないし、取り合うと自分がものすごく傷つけられるし、どうしていいかも分からなかった。

いまでは、親のネグレクト(これも現代では虐待)により、後天的にADHDの診断がついてしまう子供がいるという。私もそのたぐいなのかなぁと、つい最近他の精神科の病気で通ってた精神科の先生から説明を受けてそんなことを思った。
正直、あんまり驚かなかった。なんか人との関係苦手なとこあるなぁと思ってたので、むしろお薬の介入が出来るものでよかったのかなとも思う。

どうしていいか分からないから怒っている人は困っている気がする

怒ってる人は困ってると思う。
どうしていいか分からないんじゃないだろうか。
私は怒らない。怒れない。叫び方が分からない。感動的なドラマを見ても平然としていて、全然泣けない。なんでみんな泣いてるんだろうとぼーっと周りを見渡してたり爪を触ってたりする。

私は怒らないけど、たぶん怒ってる人と近い部分もあるのかなぁ。
でも、どうしていいか分からない時に、外側に敵意として向けられるのは、非常に迷惑だしやめて欲しいけど、羨ましかったりする。私は怒る人は大嫌いだけれど。

私は泣けない。
怒鳴れない。
深く感動できない。たぶん別のことも一緒に考えてるからなのかな。
叫べない。
時々、自分が本当は嬉しいのか悲しいのか、どう思うのか、それすらも分からない。
こんな私にやきもきして、イライラしている人もいるだろうけど、許して欲しい、私にはこれしか自分の心を守るすべがなかったんだ。

これは後日談である。

叫びたい。叫びたい。叫びたい。
ついこの前そんな自分に気づいて、車の中で大声で叫んでみた。
一回目、上手く声が出ずに、変に裏返った。
二回目、喉を開いて誰にも遠慮せず、大きな声で罵りたいことを叫んだ。
汚い言葉だ。でも気持ちよかった。ちゃんと声が出た。自分でびっくりした。人間こんなに大きな声が出せるんだと。こんなに、”良い子じゃない“ 言葉を大声で叫べるんだと。
少し、ほんの少しだけ、スッキリした。