「頑張ります」
気付けば口にしている。
19年生きてみて分かったことだが、私には、力を抜く、というプログラムがダウンロードされてないらしい。

起動しなくなった体が回復し、なんだって乗り越えられると思っていた

それに初めて気づいたのが、中学生の夏。部活漬けの毎日を過ごした夏休み明け、私の体は起動しなくなってしまった。自分でも、何がいけなかったのか、どうすればいいのか、全く分からなかった。
学校に行けない日々が続いたが、幸い、病院で診察してもらい、自律神経の病気だということが分かり、家族の献身的な支えのおかげで、学校にも戻ることができた。
体調を回復させた私は、希望に満ち溢れていた。
これで、私の人生の中での辛い時期を突破できた。これから一生付き合っていく自分の体とはいえ、成長期も関係してたのだし、もうこれ以上体調を崩すことはない。これからの人生、全力投球!と思っていた。
が、その考えは、甘かった。
高校生になった私は、日々努力!と思いながら、毎朝自転車を走らせていた。第一希望の学校に通えることとなり、演劇部にも入部し、将来に向けて精進するんだ!と毎日それなりに忙しくしていた。
高校生。忙しいのは当たり前。体調も良くなったし、なんだって乗り越えられる。多少無理したって、それが青春!なんて、1年生の夏を過ごした。
そしてまた、倒れた。自分の体と向き合うことを疎かにしていた私は、また、自分の生活を根本から見直す必要があった。

本当の私を話せる人がいないことは、2度目のダウンで一番辛かった

今振り返ってみれば、自分にとって2度目のダウンはショックが大きかった。
それに、親にとってもショックが大きかっただろうし、苦労と心配をさせたなと思う。先生方に特別補習プログラムを作ってもらったり、母の、ほとんど毎日車で送迎する、という涙ぐましい行い(本当に感謝しかない)により、結果、私は高校を無事卒業できたのだが、正直、辛いこともあった。
思い返して考えると、部活に行けなくなったこと、授業で分からないところが増えたこと、最後まで全日制の学校に粘って在籍したこと、など色々あるのだが、一番辛かったことは、話す人があまりいなかったことかもしれない。
とはいっても、私には友達がいないというわけではなかった。
彼女らと一緒に楽しい時間を過ごせたと思っているし、不登校の私を助け、支えてくれた。友達がいなかったら、今の私はいないだろう。
しかし、今になって思うのだ。
私は、彼女らのことをどこまで知っているのだろう。そして、彼女らは、私のことをどのくらい知っているのだろう。
校舎の中で過ごしていると、なんとなく、自分は1人なのだ、という孤独を感じていた。その感情が、私を辛い気持ちにさせていた要因であった。

「伝えること」が、「頑張ります」と言ってしまう私の元気の扉を開く

そして私は、いつのまにか、私のことを話さないようになっていた。なぜだかは分からない。きっと、本当の自分を受け入れてもらえるか不安で、そしてなんだか恥ずかしくって、腹を割ったコミュニケーションなんかも面倒くさくなって、ただ受け身になっていったのだと思う。
友達だけでなく、家族に対してもそんな調子だった。本当の気持ちを伝えるのは照れ臭くって、まあ分かるだろう、なんて会話することをほったらかして、後回しにした。
とはいえ、私の心のダムは、溜め込んだ様々な思いでいっぱいになり、私の知らないところで、私を苦しめていた。
「頑張ります」
口癖のように、ただ言い続けてきた。自分の気持ちなんてどうでもいい。ただ私が努力すればいいのだ、と思っていた。しかし、絶望を味わった今だから思う。
誰かと話して、相手を知りたい。人と会いたい。私のことを話せるようになりたい。私を知って欲しい。何気なく行っている「話す」ということを、もっと大切に、もっと積極的にしていきたい。
「会話」という行為が、「頑張ります」を連呼してしまう、0か100しか知らない私を変える、糸口になる気がしている。
だから、私は、今日も家族と笑い、話す。
きっと、「伝えること」が、私の元気の扉を開く。